どの時点で自衛権を発動し、武力の行使が可能になるのか。これは前回書いたように国家(政府)の判断に属することであり、映画では総理大臣が最終的に決断する。相手の武力攻撃をもって(それがどういう段階かはいろいろな判断があるが)決断するわけだ。

 

 防衛の専門家の間では、「専守防衛」では日本を守れないという議論がよくされている。相手に先に攻撃させてしまえば、それでこちらが壊滅的な打撃を受けることもあるわけで、そうなったら防衛さえ不可能になるということだ。

 

 しかし、いったん相手の武力攻撃があって、日本が自衛権を行使できるとなれば、凖理論的にいえば、もう戦闘の個々の場面において、相手が先に撃ってくるのを待って反撃するということは不要になるはずである。すでに相手の侵略が開始されているわけだから、自衛隊の反撃はあくまで防衛のためだということになるのだ。

 

 ただ、防衛のためだといって、だから何でも出来るのかという問題はついて回ることになる。このあたりは、防衛の現場でもマニュアル化されていない分野だ。

 

 南スーダンに派遣された自衛隊PKO部隊の最初の隊長をつとめた山本洋さん(元陸将)が言っていたが(『自衛官の使命と苦悩──「加憲」論議の当事者として』所収)、北海道に相手が上陸してすでに戦闘が開始されているとして、本州の別の場所から別の部隊が上陸した場合、自衛隊が相手の最初の一発を待たないで相手を殲滅していいのかどうか、そんな議論や訓練はされていないということだ。

 映画でも、その種の問題で迷う自衛官の姿が出てくる。すでに防衛出動は下されていて、相手の護衛艦が迫ってきている段階だ。島を取り戻すためには護衛艦を止めなければならない。

 

 ある自衛官はハープーン(対艦ミサイル・写真)を使うことを主張するが、佐々木蔵之介はそれをすると護衛艦が沈んで600人の命を奪うことになる、戦争をしない日本がそんなことをしていいのかと反論する。そのやり取りを聞いていた西島秀俊がどういう判断を下すのかという、この映画の見所でもある。

 

 日本の自衛隊というのは、やはり憲法9条のもとにあって、その思考と行動がやはり縛られている。渡邊隆さん(元陸将)がよく口にするのも、相手を殺さないように撃つことの難しさである。

 

 戦闘はしても戦争にはしないという言葉がこの映画でもよく出てきて、9条を揶揄する人にとっても、9条を信奉する人にとっても、言葉の遊びということになるのだろう。しかし、少なくともこの映画では、政治家も自衛官も、そういう思想の枠内で行動し、それが大規模な犠牲を生まないという結果につながることが描かれる。

 

 日本の自衛隊がどういう戦いをすべきなのか、国民は何を期待すべきなのか。その問題を考える上で、この映画は大事な役割を果たすと思う。(続)