日本はどういう場合に自衛権を発動できるのか。これは日本の安全保障を考える上で決定的に重要な問題である。戦後の国会でも延々と議論がされてきた。

 

 しかし、現実に起きる事態に即して議論され、考えられてきたかというと、必ずしもそうは言えない。そんなことを考えること自体が戦争の準備だという人もいるかもしれない。たしかに、しっかりと考え、準備しておけば、迷うことが少なくなり、速やかに防衛出動を下令できるだろう。

 

 けれども、じゃあ、考えておかないほうがいいのか。不測の事態が起きたとして、十分な議論の蓄積もないまま、時の政権が決めるとしたら、そちらのほうがコワいのではなかろうか。

 

 この映画が想定するのは、まさにリアルに起きる可能性のある事態だ。昨日も書いたように、島を武装した漁船が占領するのである。いわゆるグレイゾーン事態だ。中国の漁船が尖閣近くに何回もやってきているわけだし、絶対に上陸する可能性はないと言い切れない以上、考えないほうがいいとは思えない。

 

 実際、映画の中で、この事態を捉え、防衛大臣は海上警備行動では生ぬるいとして、防衛出動を主張するのである。もし現実に尖閣が中国の漁船に占領されたら、おそらく日本の世論は沸騰するだろう。「すぐに自衛権の発動を」となりかねない。そうならないためにも、平時において、しっかりとした議論が必要なのだ。映画では、海上警備行動で出ていった日本の艦船に対し、相手も空母機動艦隊で応戦するなどの事態をふまえ、防衛出動が決まっていく。自然な流れではないか。

 

 自衛権が発動できるのは、あくまで、これも昨日書いた通り、国連憲章で「武力攻撃(armed attack)」が発生した時だけと決められている。漁船が尖閣を占拠したということでは、どう見てもarmed attackされているとはならない(海上保安庁の巡視船を武器を使用して沈めて占拠したというなら別の判断もあるだろうが、映画の想定はそうではなかった)。

 

 しかも、その武力攻撃が「発生した」というのはどういう段階かというのが、戦後の国会での議論の対象でもあった。国連憲章の日本語訳で「発生した」となっているため、現在完了形の(has occured)のように捉えられ、相手の攻撃によって日本が被害を受けたことが自衛権発動の要件だという考え方がある一方、国連憲章の英文は(occurs)となっているので、必ずしも被害の発生は要件ではないという考え方もある。この映画でも、相手の潜水艦が魚雷を発射するため砲門を開いていることをもって、「相手が攻撃に着手したから自衛権が発動できる」とする議論が出てきていた。

 

 そいういうことも含め、いざという時に熱くならないために、やはり平時の冷静な議論が必要である。映画はそう思わせるものだった。(続)