私自身は「元号」というものは、ほとんど使わない。何かの証明書などに記入しなければならないとき、元号しかないものを頑張って西暦で押し通すほどのこだわりはないけれど(そういう意味では思想信条に関連したものではない)、便利かどうかで判断すると、使わないほうになるという程度のものだ。

 

 それでも、「平成」の終わり頃から「令和」になってからの報道には、そういうものを超えて違和感を感じる。なぜなのか、少し考えてみた。

 

 報道には、ある種の傾向がある。「令和をどういう時代に」とか、「平成はこうだった」とか、元号と時代性を関連づけようとするものだ。そういう捉え方自体が違和感の根源である。

 

 だって、元号というのは、ある人が天皇をやっている期間のことである。天皇が主権者だった時代なら、元号と時代はそれなりに関連があった。その権力者がどういう施政を行うかとかが時代を特徴づける指標の1つになるからだ。あるいは、権力闘争に明け暮れた天皇の時代とか、戦争にしか関心のなかった天皇の時代とかだったら、その元号はそういう時代性があるものとして記憶されることになっただろう。

 

 ところが日本国憲法下の現在、天皇には権力がない。権力がなくても、平成の天皇のように、その行動が国民に印象深く残り、戦争のなかった平成を象徴するような場合もあるけれど、戦争しなかったことは天皇の存在とは直接に関係がない。

 

 だから、「令和をどういう時代に」とか、「平成はこうだった」とかいうのは、そもそもおかしいのである。いや、そうなったらいいなあという願望を表明するのは意味がないと言わないけれど、主権者である国民がどういう努力をしてそういう時代にすべきだみたいな論点を欠くと、やはり違和感が残るのだと思う。

 

 しかも、もう終わったから繰り返したくないけれど、「何でも安倍批判につなげる」式の元号論があまりに多かったのも、別の種類の違和感が残った。令和の考案者とされる人の安倍批判が込められているという捉え方もあったけれど、たとえそういうものがあったとしても、政府のやることなのだから、そういう人だということを十分に安倍さんも承知して起用しているわけで、批判すればするほど安倍さんの「ふところの広さ」が際立つように感じた。

 

 まあ、元号とか安倍さんとかが論点になると、冷静さを失う人が多いということだね。政治的傾向のいかんにかかわらず。