韓国で今月から使われはじめた小学6年生用の教科書が、「強制労役に動員されるわが民族」というキャプション付きで「徴用工」の写真を載せているそうだ。また、同じ写真は、強制動員の「朝鮮人被害者」として、2014年まで韓国の高校の教科書にも掲載されていたし、現在も釜山の国立日帝強制動員歴史館に展示されているとのことだ。産経新聞ネット版の昨日の報道である。

 

 しかし、産経によると、この写真はかつて存在していた旭川新聞(北海道)が、「道路建設現場での虐待致死事件を報じた際のもの」で、記事中に写っているのが朝鮮人だという記述はなく、かつ徴用の始まるずっと前、1926年9月の記事だという。つまり写真に写っているのは日本人だということだ。産経は、そのことをすでに17年4月12日付朝刊で指摘しており、韓国の教育省や国史編纂委員会も問題点を承知しているはずだとしている。

 

 南京虐殺でも同じような問題が起きることがある。違う写真をもってきて虐殺の証拠だとするものだ。こういうことをやっていると、「証拠はウソだらけ」として徴用や虐殺それ自体がなかったことに利用されるから、運動する側は慎重の上にも慎重さが求められる。

 

 けれども、私がこの報道を目にして思ったのは、まったく違うことである。1926年の時点で、日本の道路建設の現場では残虐な扱いが横行しており、新聞が「戦慄を覚える」と書くほどのものだったということである。

 

 さらには、その写真を見た韓国の人々が、それを植民地支配下の自分たちについつい引き寄せてしまうということだ。韓国の人々が受けた仕打ちも、日本の労働者が受けた仕打ちも、当時は同じようなものだったのである。

 

 だから、日本の人々は、韓国の人々が「戦慄を覚える」ような労働を強いられていたことを自覚する必要がある。同時に、韓国の人々も、日本の人々が自分たちと同じような目に遭わされた被害者だという自覚をもつ必要がある。

 

 慰安婦問題でも、韓国の慰安婦と日本の兵士が愛し合うようなことがあったと書いたりすると、韓国からは猛烈な反発が寄せられることがある。だけど、戦場で同じように苦しい目に遭っている同士、そういう感情が生まれるのはあり得ることだ。

 

 そういう人間の心のひだを感じさせるような運動が求められていると思う。繰り返し書いているけれども。(続)