本日、午前中は会議で出社。その後、京都御所が天皇在位30周年を記念して特別公開されていることを知り、訪れることにした。

 

 いやあ、即位の礼がされた紫宸殿をはじめ、ふだんでは見られない建物とか、複製ではないさまざまな美術品とか、とっても良かった。会社から10分で行けるし、役得としかいいようがない。

 

 天皇の代替わりがあるということで、いろいろな議論がされている。タブーにしてはならない問題なので、さまざまな立場が表明されることが望ましい。

 

 私にとって、平成の天皇とは、本人も述べているように、憲法で規定されている象徴とは何かを追い求めた人という印象である。「国民統合の象徴」とは何かということでもある。

 

 憲法で天皇の国事行為がいくつか規定されていることをもって、それ以外のことを天皇がするのは憲法違反だという立場がある。「国政に関する権能を有しない」(第四条)わけだが、何かの行為をしたり発言をしたりすれば、たとえ被災地への見舞いであったり、戦争でなくなった人の巡礼であっても、それが国政と関係しないことはないのであって、だから憲法に反するということだ。

 

 憲法を四角四面に解釈すれば、そういう立場も成り立つだろう。しかし一方で、憲法はそもそも第一条で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」だとしている。国事行為というのは、法令の公布であれ国会の召集であれ、あまり目立たない行為ばかりであって、それだけをやっていて、「ああ、天皇は日本国の象徴だ」という気持ちが湧いてくることはないと思う。

 

 だから、第一条と第四条をどうバランスさせるのかというのが、天皇というものには求められてきた。昭和天皇と異なり平成の天皇は、そこを意識していたところに大きな存在意義があったというのが私の立場である。もちろんそこには試行錯誤があったわけだから、すべてを肯定するというものではないが、護憲派の多くは四条ばかりに目を奪われ、第一条には関心を向けてこなかったと感じる。

 

 どの国においても、階級対立をはじめ激しい政治対立と抗争がある。特定の政治勢力が他の政治勢力を選挙で打ち負かし、政権を運営する。しかし、そうやって誕生した政権は、特定の政治勢力の代表ではなく、日本国民全体を代表しなければならないのだ。

 

 けれども、激しい対立と抗争が存在する現実から離れられないので、政権は特定の勢力の代表として振る舞いがちである。そういう日本において、平成の天皇というのは、すべての日本国民の統合の象徴とはどんな存在かを考え、実践してきたように思う。それが日本国民に安心感をもたらしてきた。

 

 フランスのように階級闘争と対立を誇る国民性があれば違うかもしれないが、日本ではそういう人は少数なので、よけいにそうだった。「統合されている」と感じる証になってきた。

 

 そこに私は敬意を持つのである。長い間、ご苦労様でした。