『〈新〉植民地主義論』(西川長夫)を読み終える。もともと2000円強の値段だが、いまや稀少な古本で、アマゾンで7000円を超える。さすがに買えないので京都の図書館の一括検索をしてみたら、長岡京の市立図書館にしか置いてなかったので、そこに住んでいる方にお願いして借りてもらったものだ。

 

 昨日の記事で書いた9.11後の植民地問題を意識している。いくつか得るところがあった。

 

 最大のものは、ナショナリズムを排した解放闘争論の必要性だろうか。なかなか難しい問題だが、必要な視点だと感じる。

 

 解放闘争、とりわけ植民地からの解放闘争というのは、支配された民族が起ち上がるわけだから、ナショナリズムから自由にはなれない。それどころかナショナリズムそのものである。

 

 しかし、ナショナリズムは支配している民族に対しては、非常に排他的なものになる。激しいものとなる。それが民族と民族の対立を生み出す源泉となっていく。現在の韓国と日本の対立はそういうものだ。

 

 著者である西川氏は、ではどういう理論が必要かについて、結論めいたものを示していない。いや、示しているのだが、9.11後の解放闘争がどんどん後退している局面では、十分に説得力あるものにはなっていない。

 

 けれども、本書のなかには、それにつながる要素があると思う。例えば、現在の話なのだが、多国籍企業から搾取されるのと、民族企業から搾取されるのと、どちらがマシなのかという問いかけがある。どちらも資本としては同じではないか。

 

 あるいは、著者のゼミで香港の返還問題を議論していたとき、中国と韓国の留学生が同様の反応を示したという。イギリスの支配と中国の支配とどちらが幸せかということに留学生は関心を示さなかったという。どの国の支配かではなく、どの国であれどんな支配が大事ではないかということから。

 

 これって、ヘタをすると、良い植民地支配もあるという議論につながりそうだ。だから、まだ納得できる結論になっていないのだが、よくよく考えてみるべき問題ではあると思う。そこを乗り越えないと、新しい植民地主義論は出てこない。

 

 新しい理論は、少なくとも、韓国のナショナリズムに立つのではなく、韓国の人々と日本の人々の連帯を促進する理論でなければならない。どうやったらそれが生まれるのかは、まだ見えていないけれども。