もう一か月以上前、「一に高島、二に端島(軍艦島)、三に崎戸の鬼ヶ島」という言い伝えの話をした。私が生まれた炭鉱の島、長崎の崎戸島に伝わるものだ。

 

 その記事のなかで、まだ元気な伯父に炭鉱で働いていた時のことを聞こうと思っていると書いたが、ようやく本日、まとまって話を伺った。来月に90歳になると言うけれど、記憶も鮮明で、聞けて良かったなあ。

 

 終戦の年に16歳で見習いとして働き始め(労基法が出来て、すぐ18歳未満は禁止となった)、閉山(68年)の前の時まで働いていたというから、23年間ほどだね。炭鉱の他の仕事では、休日もなく働かされる人も多かったようだが、坑内にないって石炭を掘る仕事の場合、月に22日ほどしか働けなかったそうだ。体が持たないから。

 

 どこがそんなに辛いのかと言えば、もちろん疲労困憊。石炭を掘るのも力がいるし、その重いものを運び出すわけだ。

 

 その上に恐怖。真っ暗な坑道を1時間ほどかけて下に降りていく(その1時間は労働時間に入らない)。作業中もずっと真っ暗で、頭に付けているランプがないと、何も見えない。

 

 そして、いつ何が落ちてくるか分からない恐怖。その伯父も、まだ見習い工の時から、落盤事故で埋まったそうだ。自力では這い出ることもできない。いったい何十人、何百人の合同葬儀に出たことだろうかと言っていた。最後はヘルメットが支給されたが、最初の頃は手ぬぐいも頭に巻いていた。

 

 まあ、書いているとキリがないからやめるけれど、閉山になって再就職したときのことが印象的だった。三菱の炭鉱だったので、その系列のわりと大きな会社に入れてもらうことになったのだが、最初に言われたのが「炭鉱にいたことは会社で話さないように」ということだったらしい。

 

 なぜかというと、炭鉱で働いていたということは、卑下される対象だったからだ。もともと囚人にやらせていた労働だし、その後も、戦中のような時代にあっても、他に就職できる人は炭鉱には来なかった。そして朝鮮半島出身者にも苦役を押し付けた。

 

 こうやって最下層の労働という位置づけを与えることによって、もっとも差別される対象をつくることによって、その少し上でしかない労働者と分断し、支配していたわけだよね。だから、どうやって最下層の人々(朝鮮の人々も含め)と一般の人々がどう連帯し合えるかが、徴用工問題を打開する上で、もっとも大事なことだと考える。

 

 昨日は、京都中の図書館のなかで長岡京市立図書館にしかない本を借りた。アマゾンで買うと7000円もする植民地主義論関係。少しずつ本を書く準備を進めています。