戦後50年の1995年後半、共同通信が瀬島龍三に関する長いルポルタージュ連載記事を配信した。瀬島とはいうまでもなく、大日本帝国陸軍のエリート参謀であり、11年におよぶシベリア抑留を経て帰国し、伊藤忠商事に入ると、専務を経て会長職にまで登り詰めた。その間、中曽根康弘や竹下登など「歴代首相の指南役」とまで言われた人物である。

 

 その瀬島が伊藤忠で地位を固める土台となったのは、入社直後、いわゆる賠償ビジネスを成功させたからだ。日本はサンフランシスコ講和条約のあと、戦中に占領した東南アジアの国に賠償することになったのだが、現物で(例えば日本で製造されたトラックなど)支払うことになり、それを受注した日本の商社が儲ける構造だったので、成功した瀬島が高く評価されたわけである。

 

 ただ、何と言ってもアジアの人々に大きな損害を与えた日本陸軍の最高責任者の一人である。シベリアに抑留されず帰国していれば東京裁判にかけられたかもしれない人物だ。そういう人物との交渉にアジアの人々が積極的になったわけではない。それなのになぜ、瀬島は成功することができたのか。

 

 徴用工で問題になっている韓国への5億ドル供与をめぐっても同じ構造があった。このルポが本にまとまっていて(『沈黙のファイル』新潮文庫)、引っ張り出して読んでみた。

 

 韓国側にも瀬島への忌避感があったそうだ。そこを乗り越えた経緯について、以下のような記述がある(私の要約)。

 

 瀬島が韓国を訪問した際、泊まっていたホテルのタクシーを利用したが、その専属運転手だった人物がいた。運転手は戦時中、北海道の炭鉱に強制連行され、あまりの辛さに脱走した経験を瀬島に語ったところ、是非にと伊藤忠商事に迎え入れられることになった。その後、瀬島は、韓国を訪れる度に元運転手を同行させ、韓国の要人に対して、この人物を伊藤忠商事に迎え入れた経緯を話して相手を説得したというのである。

 

 そう。いわば強制連行の戦略的利用である。強制連行などなかったという頑なな態度をとるのでなく、謝罪の気持ちがあるということを(実際にあったかどうかは分からないが)具体的なかたちにして、相手の気持ちをほぐしたということである。

 

 これは戦後の日本の政治に欠けていたことだと感じる。違法性もないし、強制もないし、謝罪も不要だということにこだわり、いろいろ実態が暴露されるとあわてて謝罪するが、本気で謝罪することもなければ、気持ちは別にして謝罪を戦略的に活用することもないので、いろいろな問題が延々と繰り返される。どうすべきが日本政府が真剣に考えるべき問題だ。