この問題は私の人生のなかでも大きな問題である。何を言っているのは伝わりにくいかもしれないけれど。

 

 例えば北朝鮮が核実験を連続的に実施する時などのことだ。「制裁を加えよ」など北朝鮮批判のオンパレードとなっていって、「もっと冷静になれよ」とか「脅威を煽りすぎだ」みたいな主張をすると、「オマエは北朝鮮の仲間か」ということになってどんどん孤立し、ますます北朝鮮批判がエスカレートしていく。そういう際にどうアプローチすべきかという問題のことである。

 

 これって、ずっと存在してきた問題である。代表的なのは国家が戦争に踏みだすときだ。愛国心が煽られ、戦争に反対する世論は糾弾され、孤立していく。何を言っても通用しない。戦争の歴史を調べた研究者に聞いたことがあるけれど、それで成功して戦争を押しとどめられた事例は、過去にはないとされている。成功例は存在しないのだ。

 

 現在で言うと徴用工の問題ということになろう。慰安婦問題の時よりさらに韓国を批判する言論が満ちあふれている。真面目なテレビ番組で真面目な出演者が冷静な議論を展開しようとしても、まったく通用しないほどの沸騰した状態にあるわけだ。

 

 私のささやかな経験から導きだしているのは、こういう場合、沸騰する世論の中にどこか接点がないといけないということだ。そこで共感し合う部分を見つけることができれば、それ以外の大きく異なる問題でも議論になっていくが、ただ違う部分だけを提示すると、聞く耳を持たないということになってしまう。

 

 拉致問題の時もそうだった。世論は制裁を求めていて、私も拉致問題というのは経済制裁に値するという立場をとった。軍事制裁は支持したことがなかったが、制裁一般は否定しないということで、制裁派の人々とも議論を重ねることができた。そうすると、制裁だけでは問題が解決しなくて、「強い外交が必要だ」という議論に発展させることも可能になったと感じる。

 

 徴用工問題も、少しでも耳を傾けてもらうには、何を語るかよりも、どう語るかが大事だ。先日、日本政府がケンカが下手だから、そのやり方を教えるという視点で記事を書いたのもその一環である。その範囲では日本政府の側に立っているみたいだが、中身は謝罪しなさいと言っているわけだ。

 

 まあ、まどろっこしくて、納得されるどころか、右からも左からも相手にされないということもあるんだけどね。でも、沸騰している時こそ、どう対話するかを考えないとダメというのは、私の信念なのである。