この問題で何らかの解決策、日韓の合意をもたらすためには、事実関係についてある程度のお互いの了解が必要だと感じる。その中でも最大のものは、実際に徴用工の労働がどんなものだったのかということであろう。ということで私は現在、昔の炭鉱労働に関する本を読み始めている。

 

 まず、戦争が開始された当時の模様である。まだ徴用は開始されていない。それでもこんな状態だった。

 

 「いざ炭鉱へ来てみると、(事前に聞いていた)話とは大分違っていた。長屋は傾き、畳はぼろぼろで床も崩れていた。一番つらかったのは勤務時間の長いことだ。(始業時間の)七時というのは切羽(石炭を掘る現場のこと)で仕事にかかる時間を指し、帰りは二番方が来ても仕事をしている状態で、ぽっかり来た者には監獄部屋のように思えた。そして一カ月もたたぬうちに半数が逃げ、一年後には世帯持ち二人だけになった」

 

 みんな、うまい話に騙されてやってきたのである。さらに、戦争末期になると、南方の石油も入らなくなってくるから、炭鉱労働はどんどん過酷になってくる。

 

 「昭和19年1月には採炭決死隊が生まれた。堅坑進発所での106名の結成式では「前線勝敗の鍵は我等決死隊の双肩にある。倒れてもなお掘り進む自爆精神で率先垂範立派に死ぬ覚悟で挺身されたい」と鉱山監督局長は訓示している」

 

 こんな状態で炭鉱に入るわけだから、まさに「死ぬ覚悟」である。実際、管理者によるこんな通達も残されている。

 

 「従業員諸君! いよいよ職場確保の赤紙令状は発せられたのである。この戦いに勝ち抜く産業人に与えられた至上命令である。本令状を受領したものは正当の理由なく欠勤移動は禁ぜられており、病気その他やむをえない事情により欠勤せんとする場合は、必ず部隊長に届けるようになっている。これが遵守に違反したるものは広告産業陣をみだす国賊ともいうべきものである」

 

 この中で、ある労働者が左足に二か月の重傷を負った。それに対する会社の見解として以下のようなものが出されている。

 

 「足場さえ悪くなければ怪我をせずにすんだというわけになるが、しかし坑内の作業場はとかく足場が不良勝のものだ。悪い足場ならばいかにすれば一番安全になるかをあらかじめ研究してそれを念頭において作業すべきである」

 

 怪我をしても死ぬことがあっても、安全を研究しなかった労働者の責任だということだ。こんな状態で働かされた朝鮮半島出身者が、その過酷な労働を忘れることができず、謝罪や補償を求めるのは当然のことだと感じる。

 

 そういうことを書くと、「日本の労働者だって過酷な状態におかれていた」などの反論が寄せられる。その通りである。私がいま引用したのは、戦時中の日本の炭鉱労働者に関する記述である。日本人がこういう状態だったのだから、朝鮮半島出身者の過酷さはいかほどだったか想像できるのではないかと言いたいのである。

 

 当然のことであるが、現在、こんな状態で働かせれば、完全な違法行為である。過去のことであっても、違法性を問えるかどうかは別にして、謝罪や補償を求める気持ちが生まれてくるのは理解できるのではないか。

 

 それにしても、なぜ日本の炭鉱労働者は、何の謝罪も補償も求めないのだろうか。韓国の人々との分岐はどこにあるのだろうか。同じ労働者だったのだから、どこかに連帯の可能性があるのではないのか。(続)