ダーバン会議では奴隷制と植民地支配が議題になった。その結論が前回の引用文である。

 

 2番目の引用文にあるように、奴隷制と植民地主義などによって、「幾百万もの……人的被害と悲劇的惨状」が生み出されたことが指摘されている。そしてそれは「いつどこで」生じたものであっても「非難され」るものであり、「再来が予防されなくてはならない」とされる。当然のことであろう。

 

 ところが、1番目の引用文は、それらのうち「人道に対する罪」に当たるものが何かを指摘したものだが、そこで挙げられているのは「奴隷制と奴隷貿易とりわけ大西洋横断奴隷貿易」だけである。植民地主義は含まれていない。

 

 さらに、3番目の引用文は、これらの罪で「謝罪」や「補償」をどうするかを扱った文であるが、これも奴隷制とアパルトヘイト、ジェノサイドをあげるのみである。植民地主義はここでも含まれていない。しかも、その「謝罪」や「補償」についても、各国がすべきであるとか勧告するといういう規定ではなく、そういう国があることを明記して紹介するのみである。

 

 要するに、植民地支配というのは、確かに非難すべきもので、再び行われるようなことがあってはならないものだが、「人道に対する罪」だとされているわけでもなく、ましてや「謝罪」や「補償」をすべきものとみなされているのでもないということだ。旧植民地諸国も含め世界中の政府、NGOが集まって議論し、合意した到達点がここにあるということだ。

 

 いや、その後、時間も経っているから、進歩があるはずだと重う人もいるかもしれない。しかし、それはない。「人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容に反対する世界会議」は、1978年、83年、2001年の開催までは力強く成長をつづけたけれど、それ以降、ストップしてしまっている。

 

 なぜか。大きな背景として横たわっているのは、旧植民地諸国がかつてのような団結と連帯をしていないことだと私は思う。非同盟運動にしても、以前は輝いていたが、いまや風前の灯火だ。

 

 さらに、かつては欧米などに対する抗議と闘争は、社会を変革する正当な運動だと認められていたが、9.11以降、それとテロとの区別が曖昧になったこともあげられる。旧植民地諸国の抗議が世界の人々の共感を得るということが難しくなり、欧米諸国の政府に対して過去の反省を促す力を弱めているのだと考える。

 

 これを覆し、再び植民地支配を問題にしていくことは、容易な課題ではないだろう。もう一つ、ではなぜ奴隷制のほうは「人道に対する罪」であり、謝罪と補償の対象になるかという問題があるのだが、それは次の記事で。(続)