いやあ、ようやく終わります。写真は我が家の近くにある案内石で、近くに寺院があることを知らせてくれています。何日か前に紹介した寺院がそれだというのが、自宅仕事をやり始めてようやく分かりました。

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 以上、『日本国紀』の問題点をあれこれ指摘してきたが、それでも大戦後の記述までは当代一のストーリーテラー」(帯文)の面目躍如という要素もあったから、それなりに楽しく読み進むことができた。政治的立場やイデオロギーは違うことは分かっていたし、それでも百田氏がいろいろと努力して学んだ成果も見えていて、もっと肯定的な論評にする予定だったのだ。しかし、第二次大戦後の叙述を読んだあとは、「これは歴史書ではない。日本通史はこのように描かれてはならない」と結論づけるにいたった。なぜか。

 

 『日本国紀』のそれまでの叙述では、日本人のすばらしさが強調されてきた。これまで述べてきたように、そこには光だけを取り上げる行き過ぎもあり、他国を貶める問題もあるのだが、立場の違いとして見過ごせる要素もあった。

 

 ところが戦後の話になると、叙述の視点そのものが変わってくる。百田氏は「これほど書くのが辛い章はない」と述べるが、「読むのも辛い」ものとなっていく。どう変わるかと言えば、突然、日本人が批判の対象とされるのだ。それまで日本のすばらしさが強調されたのは、現在の日本人のあり方を糾弾するためにあったのだと、ここに来て気づくことになる。百田氏の言葉を引用すると、戦後の日本と日本人というのは、次のようなものであった。

 

 「『敗戦』と、『GHQの政策』と、『WGIP洗脳者』(*)と、『戦後利得者』たちによって、『日本人の精神』は、70年にわたって踏みつぶされ、歪められ、刈り取られ、ほとんど絶滅状態に追い込まれた」

 

 WGIPというのは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」のことで、戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるためのGHQによる宣伝計画とされるものだ。要するに、アメリカの占領政策によって、戦前の日本の伝統が根こそぎ崩壊したという主張である。その象徴が日本国憲法であり、「日本らしさを感じさせる条文はほぼない」とされる。そして、失われた伝統、日本のすばらしさを取り戻すのが現在の課題であるというのが、本書の結論である。

 

 この結論を導くためには、日本人全体がWGIPに犯されていると主張する必要がある。そのため百田氏は、「共産主義的な思想は日本社会のいたるところに深く根を下ろして」いると述べる。日本人が先の大戦を侵略戦争だとみなし、周辺国に謝罪しているのも、その影響なのだそうだ。

 

 百田氏が先の大戦を侵略戦争と考えないのは分かっているし、そう考える人を糾弾するのは自由である。迷わずにやればいい。けれども、そういう思想を「共産主義」だと位置づけ、それが日本全体を覆っているかのような見方は、事実として成り立たないだろう。戦後の日本では、共産主義と対峙した自民党政権がほとんどずっと続いており(他方で共産党は少数のままであり続け)、その自民党政権は先の大戦を侵略とみなすことを拒否し続けてきた一事をもってしても、それは明らかである。証明すら不要なことだ。

 

 百田氏は、そういう結論を持って戦後史を眺めるため、いろいろな場面で矛盾に直面する。いくつかを挙げよう。

 

 独立後すぐ、戦犯を赦免するための署名運動が起こり、4000万人が署名したのだが、これはWGIPによる洗脳説では説明できない。すると百田氏は、「洗脳の効果が現れるのは、実はこの後なのだった」と、論理の破綻を糊塗しようとする。

 

 60年安保闘争を批判し、それに参加した人が少数であったことを強調するため、直後の総選挙で自民党が圧勝したことを指摘するのだが、それは選挙時の有権者がすべてすばらしい伝統を持っていた戦前生まれだったからだというのだ。じゃあ、すばらしい日本の伝統を受け継がない戦後生まれ(共産主義に洗脳もされている)が多数になっても自民党が選挙で勝ち続けていることは、いったいどう説明するのか。

 

 要するに、『日本国紀』というのは、歴史を叙述したものではないということだ。歴史に名を借りて、百田氏の政治的な主張をちりばめたものなのである。

 

 冒頭から書いているように、歴史を描くのに、政治的・イデオロギー的な中立性は必ずしも必要ではないというのが私の考え方である。しかし、そうであっても、自分の政治的・イデオロギー的な立場を矛盾する事実に直面したとき、それを隠さないで、あるいは歪めないで、どう対応するかが学問に求められる最小限の節度である。ある場合は、さらなる探求の結果、もとの立場に矛盾しない説明方法が見つかるかもしれない。別の場合、自分の立場を修正する必要性が生まれてくるかもしれない。それが学問というものである。『日本国紀』はその節度から外れているというだけでなく、最後の結論部分にいたっては、政治的主張のために学問を歪めるものである。

 

 私が誰か一人の個人に日本通史の執筆を依頼する時は、そういうものにしてほしくないことをまず言うことになるだろう。『日本国紀』は、その重要性を自覚させてくれた点で、私にはそれなりの存在意義を持っていると考える。