ようやく連載を再開できました。写真は、東大寺二月堂で3月12日に行われる「お水取り」に向け、2日に「お水送り」がされる福井県の神宮寺入り口。

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 明治以降の日本の歴史の描き方についても、同様の感想を持つ。日本の優れた点がいろいろと書かれるが、光だけでなく陰もあわせて見ようよと感じてしまう。この時代の戦争の体験は、現在の日本と日本人、日本と周辺国の関係を直接にも規定するものだけに、リアルさが求められるのである。

 

 論点はたくさんあるが二つに限る。まず日本が独立を保ったことの意義と、韓国の独立を奪ったことの問題である。

 

 百田氏は、『日本国紀』のいろいろな箇所で、列強がアジアを植民地支配するなかで、日本が独立を保ったことを誇ってみせる。さらに、幕末に結んだ不平等条約もやがては撤廃し、欧米と肩を並べるまでにいたったことを喜ぶ。この気持ちは私も共有する。日本人が誇っていいことだ。この過程においては、日露戦争での勝利が大きな意味をもっており、百田氏が強調するように、それが植民地からの独立を願うアジアの人々を励ましたことも事実である。

 

 だが、日本の独立と発展は、他の事象と切り離されては存在していないことを忘れてはならない。どういうことだろうか。

 

 不平等条約の最終的な撤廃は1911年である。50年の努力が実を結んだのだ。外交的な努力もあっただろうが、決定的だったのはそれではない。1880年代から、朝鮮半島の支配権をめぐってイギリスとロシアは争っており、イギリスのなかには日本を利用してロシアに対抗しようとする動きがあった。イギリス政府に近い「ロンドン・タイムス」は84年12月、「(ロシアと対抗するという)目的を一挙に達成する手段として、イギリスは日本の条約改正要求に積極的に」なるべきだとの論評も掲げていたそうだ(井上清『条約改正』岩波新書)。ただ当時、ロシアに対抗するというイギリスの思惑に応えるには、日本はまだ非力であった。しかし、90年代、日本は軍隊を海外に出せるだけの力をつけ、日清戦争が開始されると、イギリスは領事裁判権を放棄することになる。また、日露戦争に日本が勝利し、韓国を併合するだけの力をつけると(1910年)、日本は翌年に関税自主権も獲得するのである。

 

 つまり、日本が独立を確固としたものにできたのは、朝鮮半島の独立を奪い、植民地にしたことと一体なのである。光と陰は一体のものとして存在しているのである。しかも、朝鮮半島の人々にとって、欧米は突如としてやってきた異邦人であったが、日本はケンカ相手としてであれ友好の対象としてであれ、ずっと共存してきた仲間内の国であった。そういう国に植民地にされた人々の気持ちが複雑なものになることは当然のことであろう。

 

 もう一つは、百田氏の言う「大東亜戦争」のことである。百田氏は、「日本が戦争への道を進まずに済む方法はなかったのか──。私たちが歴史を学ぶ理由は実はここにある」と述べているから、どんなことを学んだのかと思って読んだのだが、残念ながらどこにもそれらしい記述は見当たらなかった。

 

 満州事変について言えば、「満州は古来、漢民族が実効支配したことは一度もない」と強調され、国際連盟が日本の撤退を求めたことを批判する。それに続く中国との全面戦争は、「確固たる目的がないままに行なわれた戦争」とされている。「気がつけば全面的な戦いになっていた」そうだ。他方、太平洋戦争のきっかけとなった「ハル・ノート」を論じる箇所では、満州は当然のごとく中国の一部だと日本政府が考えており(満州事変の時は中国の一部ではなかったはずなのに)、だから「日本が……中国から全面撤退する」という要求がのめなかったとされる。戦争に踏み切ったのは、「ハル・ノート」を受け入れると、「欧米の植民地にされてしまうという恐怖」が生み出したものだそうなのだ。

 

 ここのどこにも、「日本が戦争への道を進まずに済む方法」への示唆はない。唯一、それらしい箇所があるとすると、それ以前の日清戦争を論じた箇所の次の記述である。

 

 「清から多額の賠償を得たことで、国民の間に『戦争は金になる』という間違った認識が広がった。その誤解と驕りが『日露戦争』以後の日本を誤った方向へと進ませた」 

 

 「国民の間の間違った認識」が日本を誤らせたということである。そう言われると、太平洋戦争を論じた箇所でも、「日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策した」と、その「努力」のあれこれを列挙した上で、ここでも「国民の誤り」に言及する。

 

 「日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難した。満州事変以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わせていた。……『日独伊三国同盟』を積極的に推したのも新聞社だった」

 

 国民や新聞社の戦争責任がないとは言わない。いや、それは存在するし、重大でもある。しかし、政府は戦争を回避しようとしたが、国民が煽ったから戦争になったというのでは、「日本が戦争への道を進まずに済む方法」は見えてこないのではなかろうか。現在の日本において、百田氏も含む国民の言論が戦争につながる可能性への自戒を書いたのが『日本国紀』だととらえれば、意味のある指摘かもしれないけれども。(続)