昨日紹介した図書館がどれだけ使えるか試すために、私が執筆した本がどれだけ所蔵されているか検索してみました。16冊ありましたので、それをわざわざ持ち込む必要はなさそうです。

 

 

 さて、徴用工問題。その運動の目標はどうなっているのかということである。

 

 植民地支配の違法性を認めさせるという国際法上の問題は別の論じるが、それが運動の目標としてきわめて高いことだけは明確である。日本政府が認めていないし、かつて植民地支配をしたことのあるどの列強も認めていないことである(違法性は脇に置いて植民地時代の犯罪について賠償した例はある)。

 

 そこにしか活路を見いだせなかった事情は理解する。だって、請求権協定の枠内でやっている限り、日本側はすでに支払ったので決着済みということになるし、被害者個々人に対してもすでに韓国政府が支払ったでしょうということになるからだ。

 

 徴用工にとってみると、自分に非道な仕打ちをしたのが日本とその企業なのに、日本から直接に賠償の支払いを受けないことには満足できない。日本側に賠償させるためには、請求権協定の枠から外れて、植民地支配が違法だったという別の論理が必要だということになったのだろう。

 

 そうやってようやく編み出した新しい論理と目標だから、妥協点というか落としどころは見いだしにくい。双方にとってだ。

 

 日本側にとってみれば、企業が多少でもおカネを払うことは、植民地支配が違法だったというのを認めたことになるので、従来の立場を転換することになり、どうしても無理ということになるだろう。

 

 原告側にとってみれば、違法性のところは妥協しておカネだけでいいよということになると、じゃあ請求権協定と同じ考え方だということで、すでに決着済みということになってしまう。

 

 つまり、妥協できない構造なのだ。徴用工を支援する運動の側が、そういう選択をしている。

 

 それでいいという考え方もあるだろう。被害者を救済するためのものだから、水準を下げるべきでないという。植民地支配の違法性を認めさせないと敗北に等しいのだという考え方だ。

 

 目標を下げない運動は必要である。いつになるかは別にして、かつての植民地支配が違法だったということを、日本にも欧米にも認めさせるような時代をつくらなければならないし、そのためには現実に妥協する運動だらけということであってはならない。理想をかかげた運動が不可欠なゆえんである。

 

 しかし、残り少ない人生を生きている被害者にかかわる運動がそれでいいのかというと、そこはよくよく考えなければいけないことだ。それが本当に当事者にとって幸せなことなのだろうかということである。

 

 ありゃあ、産経新聞デジタルiRONNAに寄稿した百田尚樹『日本国紀』の論評、ようやくでています。そちらは要約版なので、明日から全文版をこのブログで連載しますね。(続)