先月の話になるが、10年前に講演会に呼んで頂いた京都の2つの9条の会に、再び呼ばれることがあった。画像は、その一つである伏見の呉竹文化センター。

 

 

 そこで冒頭にお話ししたことの一つは、自衛隊という軍事組織に関する個々人の認識というのは、その人にとってみれば何十年もの体験を通じて身についたものであって、容易に変わるものではないということだ。さらに私自身、「変えてほしい」という立場はとらないということだった。

 

 自衛隊を明記する加憲案を葬り去ろうとすると、別に自衛隊に関する人の立場を変えなくてもいいのだ。自衛隊を違憲だとする人も、合憲だとする人も、自衛隊を憎む人も、自衛隊を愛する人も、それぞれの立場から「自衛隊を明記することはこのように現状より悪くなる」と主張し、支持を広げていけばいいのだ。政権をとろうとする共闘では、違憲論と合憲論の共存には無理があるが、市民運動のレベルで共闘するには、根本的に考え方が違っても、お互いをリスペクトする程度の関係があればいい。

 

 これは、この十数年、いろいろなところで話してきた経験から来る知恵でもある。9条の会だから、ほとんどの参加者は自衛隊違憲論に立っていて、ある場合は絶対に認めてはならないと信じている。そういう人の考えを変えようと努力すればするほど反発が強まるという体験をしてきたので、このようなものの言い方をするようになってきた。

 

 ところがだ。講演が終わったあと、主催者と立ち話をしていたのだが、その人が言うのである。10年前に私の聞いたときは反発もあったけれども、いまでは違うのだと。松竹さんは人の考えは変わらないと言ったけれど、変わるのですよと。

 

 それは私にとってはうれしいことであった。おそらく、やはりこの10年間の、その人なりの体験というものがあって、変化を生み出したのだろう。

 

 くわえて、私の話し方で言えば、無理に相手を変えようとしないことが良かったかもしれない。だって、何十年も蓄積されてきた考え方が間違いだとか、不十分だとか、そういうことを言われるのは辛いことだからね。やはり、自分は正しくて、相手は間違っているというアプローチは良くないのである。

 

 同時にそれは、護憲派内部のことだけではないことも分かる。改憲派にどうアプローチするのがいいのかという問題にも共通すると思うのだ。(続)