先週後半はずっと東京出張だった。その中で「自衛隊を活かす会」の会議もやった。会議といっても、代表の柳澤協二さん、呼びかけ人の伊勢崎賢治さん、加藤朗さん、そして私という合計4人のいつもの会議だけれども。

 

 そこで伊勢崎さんがテレビで観たというドイツ映画のことを紹介していたのが印象的だった。9.11と同じように、民間人120人程度が乗った民間機がテロリストに奪われ、7万人が集うスタジアムに向かっていくのだが、それにどう対応するかということが主題となった映画である。

 

 実際のドイツでは、そういう場合、民間機を撃墜することは犯罪だということが法律で決まったそうである。何万人が殺される恐れがあるからといって、その恐れを理由に何百人を殺していいはずがないという趣旨だそうだ。それを受けて、じゃあリアルな場面でもそれが通用するのかが、映画の主題だったみたいだ。

 

 飛び立ったドイツ空軍のパイロットは、当然、迷う。どうすればいいか対応してほしいと上官に具申する。それが大臣にまで伝わるが、法律で決まっているわけだから、「ノー」という答えしか出てこない。けれど、かたちにはならないが、「パイロット、なんとかしてくれよ」という雰囲気は伝わってくる。そこでパイロットは自己責任で民間機を撃墜するのである。「やはり何万人を殺してはいけない」と。

 

 そこで裁判が開始される。複雑な審理の過程は省くけれども、パイロットだけが責任を問われ、有罪になる。そういうシナリオだったそうだ。

 

 なんだか、いかにも日本でも起こりそうな話だと感じた。いや、そういう事件が起きるというよりも、もし起きた際、政治家は責任を回避して、現場の自衛官だけが処罰されるというところがである。実際、南スーダンをめぐってさんざん議論されたように、自衛官が民間人を殺すようなことがあっても、法律では自衛官個人の「武器使用」となっていて、政府の責任は追及されないのだから。

 

 ドイツと違うのは、ドイツではそういう問題が、ちゃんと立法化されもしているし、映画のテーマにもなって国民の議論になっていることだ。そういう議論がされていかないと、日本の安全保障のあり方も深まった議論になっていかない。

 

 その場で柳澤さんが言っていたが、洞爺湖サミットのとき、同じようなことが起きたら、どの時点で撃ち落とすのかということも決まっていたそうだ。そういうことがオモテに出てこないのかいいのか悪いのか。しかし、少なくとも基本的な原則は決めておかないと、誰がどう責任を負うかも曖昧になってしまうのではないのだろうか。