護国寺にやってきた。
護国寺は真言宗の寺である。
正式には神齢山悉地院大聖護国寺というらしい。
解説によれば、1681年、徳川綱吉は母、桂昌院の頼みを聞いて寺の創建を始めた。350年位前の事である。
江戸33番札所の12番札所にあたるという。
江戸時代には、浅草寺、回向院に次いで人気があったのだともいう。
護国寺は幕府の祈願寺で檀家をもたなかった。
このため明治維新後は後ろ盾を失い経済的に苦しい状況に置かれたが、境内の敷地5万坪のうち、東側の2万5千坪に宮家の墓所が作られた。
これが豊島岡墓地という。
豊島岡墓地は皇族の葬儀で時に耳にしてはいたが、どこにあるのかと思っていた。名称からして豊島区内にあるのだろうかと思っていたが、文京区内にあったのですね。
明治天皇の長男が亡くなった折に、その大半が皇族墓地とされ、5千坪が陸軍の墓地になったのだという。この話は・・・なるほどという話ですね。
こういう経緯のため、境内は2万坪ほどに縮小した。陸軍墓地となった界隈は護国寺の領域になっているらしい。
その後、・・・護国寺には明治の元勲である三条実美、山縣有朋らの墓所が作られたという。
山縣有朋は、明治陸軍に君臨した人物ですね・・・・というだけでは、その一部の紹介ということになるかもしれない。
幕末から戦前の政財界全般に絶大なる影響を及ぼした人物であり、戦後においても、いまだに山縣有朋が造園した広大華麗な庭園にて山縣有朋の名を聞くことになった巨大な人物という言い方も、決して大げさではないようである。
東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園などは、山縣が自ら想を練り7代目小川治兵衛らに築かせたものである。
伝統的な日本庭園とは異なる独特の発想をもって築かれた庭園群というべきものであった。
山縣の発想は造園家である小川治兵衛らにも深い影響を与えたとされる。
まあ・・・しかし、山縣有朋がこうした巨大庭園を構想できたのも、その人脈金脈も巨大であったからであろうが、そうした巨大資産をどのようにして蓄財したか、私はその方面にむしろ興味がある。
蓄財の手法は、恐らく・・・長州藩の下級藩士であった山縣有朋も、戦後の政治家、無一文で越後から風呂敷つつみ一つで上京した田中角栄も似たようなものであったかもしれない。
山縣は元々は長州藩の一下級武士でありながら、幕末から明治期の混乱の中からのし上がっていった一代の大傑物であるが、だが、そういうだけでは、江戸期の将軍でさえ容易になしえない巨大な庭園を造営するという大事業を成し得たことに、簡単には結びつかないだろう。
福島から上京してきた学生時代からの友人との半日余りの都内散策も、残された時間も大分少なくなってきた。
あちらこちらに夕方の深い影が見えて来た。
もう時間は、数時間もないだろう。
こうして会う時の楽しみも大きいが、旅の終わりは、いつも寂しいものだ。
若い時のようにはいかない。
若い時は、明日でも明後日でも、その約束をしても、その約束が実現されないなんて心配は感じたことがなかった。いや一年後でも5年後でも,その再会に不安を持ったことなど一度たりともなかったものである。
だが、今の我々にとっては、来年の今頃のことは、当然のようには自明のことではない。
無論、彼に限ったことではない。
我々の年代の者にとっては、私も含め誰にとっても、そういうことであろう。
唐突ですが・・どうなるの?
危機感をもってます。
今後、一体、何が来るのか?
借金だらけの家計で今後も、さらに思いっきり借金する家計にも似た日本経済だが・・・『円安でホクホク』と言ってしまう高市サン。
破滅的な感じですが・・。
盲目の案内人の船に乗船しているも同然の私たち・・と思いませんか。
高市サンにomakaseしますか?
第12045回)










