この記事について・・・特に筋書きが決まっているわけでもない。

いわば成り行き任せである。

だから、どういう風になって行くのか、書いている本人も良く分かっていない。

 

 

 

 

実際のところ・・・・人生を80年近くも生きてくると、記憶が次第に曖昧になっているということはあろう。それでも、書いているうちに、何かのきっかけがあると、芋づる式に何かが思い出されてくる。急に関心がそっちの方に向ったりして上手い具合になるときもあるが・・・・それがいいタイミングで出てくると良いのだが、なかなか、そうはいかない。

 

しかし、この文章を書いているうちに、この記事をいろいろな・・・回顧録風にまとめられれば、ちょっと良いという思いにもなっている。

あるいは・・・ちょっとした・・・まあ、自伝記というと誠に大げさだが、何か、そんな風になっていけば、いいのかなあ・・・とも思ったりもする。

自分の親や、親戚、友人、兄弟などが・・・・亡くなる人が目立ってくるのも影響しているかもしれない。

 

要は、十分、そういう年齢になったということでしょうか。

書いたから、どうなるというものでもないが、しかし、いつどうなるかも分からない。

まあ、自分が死んでしまえば、すべてが単純に終わりになるだけでもあるのだが・・・。別に格別のことを成し遂げたわけでもないし、というより、ホントに何事もないのが現実である。そういう粗末な人生を他の皆さんが格別に取り上げるわけでもないのだあから・・・書いても大して意味もない・・・のだが。

 

 

 

 

それでも、だから、なおさら・・・こういう人間がいたという何かを、自分の周りの誰かに、そこはかとなく残しておきたい気分でもあろうか。

そういうものがないと、半年、一年・・・・まあ、精々、3年も過ぎれば、みな消えて無くなるのであろうから。

 

そういう動機を与えたのが、「兄弟から贈る言葉」という文章を書いたことが大きな影響を与えたかもしれない。

これは長姉の夫、義兄について、亡くなる数日前に、義兄が生きている間に、義兄について兄弟である私たちの思いを聞かせておきたいと、義兄の枕もとで亡くなる数日前に読み聞かせたものであった。

姉は義兄の状態が悪くなっていたから読み聞かせても、どうせ分からないと思っていたようだが、義兄は意外にも「ありがとう!」との言葉を3度繰り返し、感謝の言葉を述べてくれた。

姉も私も大いに驚いたものである。

 

義兄とは、同じ市内に住んでいたから、義兄も私も引退してから交友が一段と深まり、数年の間コロナの前の頃までの期間、定例の毎月の飲み会を重ね話をしていたものだから、格別の思いがあったのですね。

ごく自然に、そういう思いになったのでしょう。

「生前弔辞」を本人に読み聞かせたものである。

 

そうしたことを自分についても、自分の人生にたいする弔辞を、自分でやっておきたい・・・・ということであろうか。自分なら、ま、とにかく可能であろう・・・・自分の好きなようにできる。

 

 

この車は、もう10年近く前に廃車した。田舎と松戸の間は、片道約200キロあるが、何回往復したことか。控え目にみて数百回、千回を優に超えるだろう。特に母親が生きている間は頻繁でした。母親の晩年の数年は妻とともに、車は田舎にあった。この車はガソリンを撒いて走っているような車だったから、カネ食い虫であったが、頑丈な車だったからお天気が悪くても平気でした。荷物は沢山積めたし。いつも引っ越しのような荷物を積んでいたことを思い出す。妻も運転できたからお互いに心強いものがありました。古希のときに廃車した。

(第11946回)