市内には、歩いていくには、ちょっと遠いが、姉夫婦もいる。
同じ松戸市内に越して来たのは、私たちの方がずっと早いが、松戸市内に越してきたいわれは、わが家と似たようなものであった。親戚の親切な義理の叔父が、工務店を営んでいたから土地を世話し、建物も建ててくれた。その後も何かがあれば、些細なことでも世話してくれた。
この義理のオジの私たちに対する親切さは、尋常ではなかった。
後年、年取って、亡くなる数年前まで、いろいろなことをお願いしたものである。叔父も頼まれると嬉しかった様子だった。
この叔父は、妻の亡母の妹の連れ合いであった。
福島県内の矢祭町内の近くの出身であった。いわば同郷であった。
叔父の葬儀には、私が弔辞を読んだ。それだけの十分な理由があった。
血は、つながっては居ない叔父だったのに・・・・。
姉は無論、私と同じ故郷だが、姉の連れ合いである義兄も殆ど同じようなところに故郷があった。
加えて義兄は実兄の高校の同級生でした。
義兄と実兄は、それこそ・・・・70数年にも及ぶ長い交友があったことになる。
実兄の存在がなければ、姉が義兄と結婚することもなかったろう。姉が結婚しなければ、私と義兄の関係もなかった。そういう意味では、ほとんど運命のような結びつきであった。
また・・・・ある意味で、先の叔父のことも含めて、私たちは故郷の様々な縁が、丸ごと引っ越してきて、生涯を過ごしたようなものでしたね。
そうした義兄の容体が悪化した時、義兄の病床で、亡くなる寸前に『兄弟から贈る言葉』を私が読んだ。
断っておくが、弔辞ではない。
亡くなる前に、義兄が生きているうちに、私や兄弟姉妹の心情、既に亡くなった下の姉の気持も含めて、義兄に伝えておきたいと思ったからである。
私の発想であるが、死んでから義兄に届かない弔辞を読んでも意味がない、というだけでなく、これが本当に最後だという時に、我ら兄弟の思いを義兄に、きちんと伝えたいという気持ちでした。
義兄に聞かせる前に姉に見てもらおうと思ったが、姉は分かったと、いやにあっさりと、やって頂戴というので、そのまま用意したものを義兄に読み聞かせた。
恐らく姉の思いは、枕もとで読んでも『パパは、どうせ分からない』と思ったのであろうが、案に相違して読み上げると、義兄は、何と3度「ありがとう。ありがとう。ありがとう。」と思いのほかしっかりした声で言葉を発したのには驚きましたね。
だが、私以上に姉は、驚いたようだ。
私も姉に、「兄さんは確かに言ったよね」と思わず確認してしまった。
それから三日後に義兄は亡くなった。
ちょうどお盆のときでしたね。
義兄の死を聞いた時、ああ・・・・本当に、やっておいて良かったと、そう思ったものでした。
まもなく義兄の一周忌である。
(第11941回)