東京逓信病院に通った中で、実にいろいろなことがあった。

そうした中でも、もっとも強烈だったのは、ある社員に関してのこと。

もう・・・・・20数年・・・・30年近く前にもなりますか・・・・。

 

無論、在職中の頃。

ある朝、私の席の電話が鳴った。営業部署からの連絡であった。

「○〇課長のご様子が・・・・・」という電話であった。

すぐ行ってみると、確かに普通ではなさそうである。

席に戻り、東京逓信病院の救急に連絡を取り、社用車の手配もした。空いている車は、生憎、社長車だけであったが、この際、仕方がない。

また、営業部に戻り、彼の所に行ってみると、やはり尋常でない様子。彼に肩を貸し駐車場に行くと車の準備ができていた。

病院までは車で5分ほど。すぐ着いたが、車寄せに行くと、軒下の車いすが目に付いた。車いすに乗るかと聞くと、乗るという。この時、相当に悪いのかもしれないと改めて思ったものでした。

 

 

 

 

救急の部署には、これまでに何度も行ったことはあるが、医師が簡単な診察検査の後、彼は直ちに専門の科目に移された。

いよいよ・・・・・尋常ではないのだと察知した。

この段階で、彼の自宅に連絡するよう会社に連絡したが、連絡がつかないという。

困りましたね。どうも普通の状態でないかもしれないのに、奥さんに連絡がつかないというのは、困惑するばかりでした。

まあ、しかし、信頼できる病院に入ってるのだから、とりあえず診察治療に不都合はない。診察診断を見守るしかない。それまでの状態は会社の関係者には随時連絡を済ませ、結果を待った。

 

多分・・・・・2時間ほどして、結果が出た。

家族が不在のまま、私だけで医師の説明を聞くことになった。

医師の説明は極めて重大なものでした。余命に関わる話でした。

暫くして、彼の病室とされた部屋に行ってみると、彼は少しは落ち着いた様子でした。奥さんと連絡がつかないと告げると、実は福島県白河市の実家に帰っているのだという。白河市ではダルマ市の最中で、そのお手伝いに帰っているのだという。電話番号を彼から聞き連絡してみたが、生憎なことに、この電話番号が間違っているらしい。

 

誠に困りましたね。奥さんのご実家は、実は私の実家の隣町でもあったので、私の実家の長兄に連絡をとり電話番号を調べてもらうことにした。

暫くして電話番号がわかり、漸くにして奥さんとも連絡がついたという経緯もあった。

 

 

彼の入院生活が終わるまで、私の日課のような逓信病院通いは続いた。会社から歩いて10分ほどであったから、少しも苦にならず、週に2~3回は合間を見て顔を見に病室に出掛けたものである。

3年余り続いた。

時には、結婚後遅くして生まれた当時2歳位であった息子が、お父さんのベッドの中で遊んでいたりもした。

社長はヨーロッパ出張の前日には病院にお見舞いに訪れたりもした。葬儀では予定を切り上げて日本に戻り空港で喪服に着替えるという慌ただしさもあった。

葬儀ではパパが亡くなったことの意味も知らず大勢の皆さんがいることを喜ぶ息子の笑顔が皆さんの涙をさそってもいた。

彼ら家族と、房総にあった会社の保養所に出掛けたりもした・・・・・。保養所では3月でもあるのに、朝、目が覚めると、外は時ならぬ雪景色になっていた。

あの頃、幼かった息子も・・・・・数年前に結婚もした。

 

何とも・・・・・ホントに・・・・・いろいろなことがありましたが・・・・・この病院では重篤な患者を見守る看護師の皆さんの充実ぶり、素晴らしさを何度か見聞きすることもあった。

彼が余命が数か月後に迫っていることを医師から告げられ、深夜、ベッドの中で涙をこらえきれずにいた時、深夜巡回の看護師が、そのことに気づき黙って彼に寄り添ってくれたと、彼の病室を訪れたときに、聞かされた。

私は、彼が病状を知ったことを知り、狼狽もしたが、彼はこの数日で覚悟ができたようで、狼狽する私を逆にいたわってくれたと思い出す。

 

そういう東京逓信病院とも、これでお別れである。もう、自分の通院先は地元・松戸の市立病院に移したので、私がここに来ることは、もう決してあるまい。

 

 

 

(第11933回)