白河市は、城下町ということで、実に城下町らしい面白さを充分に見せてくれるところである。

私は、高校は、この城のあった街に3年間通ったし、旧制中学時代には叔父が通った。

叔父と私は、大きく時代を超えた先輩後輩である。

 

叔父は私の亡母の妹の連れ合いで、いわば義理の叔父と甥という関係であるが、叔父は義理というのを越えて、むしろ学校の後輩という関係として見ていてくれたようである。

わざわざ『遺言』のような文章を私に託してくれたのも、そういう思いがあったからであろう。

だからと言って、私に何をせよというわけでもない。

あるいは、何をせよという以上に、私に何かを語りたかったのだ・・・・という受け止めもしている。

 

 

この『遺言』の扱い方は、いくつかあったと思う。

ひとつは、単に読むだけという方法である。

二つ目は、こうして、何か・・・・・ブログというようなものに文章のみを載せるというやり方。

三つめは、何かと、いわば飾りをつけて掲載するやり方である。

私は三つ目のやり方を選んだ。あの世に行ったときに、また出会うかもしれないから・・・・・多少努力したところを見せておきたい、という気持ちである。

 

 

そういう意味で、記事の合間に、あるいは冒頭に、白河のことを触れているのも、白河という土地柄のなかで叔父も、旧制中学の時代に、この城を何かと歩いたであろうとか・・・・そういう意味合いであって、また、白河という街は、何かと訪れてくれた人たちを楽しませてくれるから、多分に、叔父と私も、まさに時代を超えて青春を共有したということであろうか。

 

しかし・・・・・私は高校在学の頃は、白河の在の育ちであったから、この折角の宝の山を十分に楽しむというわけにはいかなかった。学校との往復はもっぱらバス通学で、本数が多い訳でもないから学校が終わると、そのまま決まった時間のバスに乗って帰るというのが通例であったし、高校卒業してからは、白河の街を訪れること自体も滅多になく、大分、念入りに白河の街を楽しむようになったのは、まもなく職業生活を引退という時期になってからでした。それも、たまたま同郷の大学時代の友人とあちこち楽しむ機会を持つようになってからでした。彼がいなかったら、白河に行くことも多分、なかった・・・・・かもしれないでしょうね。偶然というのは、有難いし、そういう機会があったら、決して逃してはいけないものですね。今になって・・・・つくづく、そう思う。

このことが、叔父が手紙をくれた意味に、より深みを与えてくれたかもしれない、と思ったりもする。

文章の合間に入れた画像には、主に白河というエリアで行われた幕末期の戊辰戦争の痕跡などを入れた。

また、白河は寺が多い。江戸時代には城主が頻繁に代わり、その都度、引き連れてきた殿様の菩提寺もやってきたが、殿様の交代が頻繁なため、様々の宗派のお寺が白河にやってくることにもなり、そのことが白河の色彩を、より多彩なものにしてくれたように思う。

 

 

 

 

 

 

 

さあ・・・・・また叔父の遺言の(つづき)になります。

そろそろ終盤ですね。

 

講堂のない学校では、大きな行事があるときには、いくつかの教室の仕切り板戸をいりはずし、それらの教室の机や椅子を他に運び出し、全校生が会するような広間をつくり、それらの行事を実施、終了後また元に戻すような作業と、それは並大抵のことではありませんでした。

私も、それを約10年経験しております。

昭和40年頃から、小学校にも体育館がつくられるようになり、そんな手間が省けるようになり、教員の負担も少なくなりました。

 

石井小では、昭和の早くに講堂が寄贈されておりましたので、その頃、約600人程の児童・生徒がおりましたが、朝礼や国の祝祭日の行事(1月1日の四方拝、2月11日の紀元節、4月29日の天長節、11月3日の明治節)の式典。それに卒業式、学芸会といった行事には、何の準備も後片付けもなく、簡単に全校生が一堂に集まることができました。また、書画の展覧会や村の農産物の品評会、講演会なども行われました。

また、雨の日は体育館として体操や、跳び箱、マット運動、女子なら遊戯(ダンス)など行われ、子どもたちは、他では体験できないようなことが享受できたのですから、その恩恵を十分に受けたわけです。

 

 

これもまた、他の学校を見たり経験したことはありませんし、石井小の子達は、これが当たり前と思っていましたから、その父兄も同様、寄贈者に感謝するなどの気は、さらさらありませんでした。

 

このことに怒った母は、翁に『わからずやばかりだ。一層なこと、松本講堂にとしてしまいなさい』と申したところ、翁は『よっちゃん、それは違うよ。一旦、公のものとしたからには、自分の名など冠するものではないんだよ・・・・』と、諭されたそうです。

母は、よく私に、そのことを話してくれました。

昭和の終わりころ、県内の小中高校で、何か記念物などをつくると、その時の校長名を刻むなど、はやったことがありました。

私にも、そういう機会がありましたが、翁の言葉が思い出され、おことわりしたことがありました。

 

今、つくづく、よかったと思い出したりしています。

ついでですが、石井小の講堂には、歴代の村長の写真が掲げられていました。母の父、つまり私の祖父の写真がトップ。我が家には祖父の写真がありませんでしたから、講堂に入るたびに、祖父に対面でき、まわりに誰もいないときには、そこで対話しているような気分でした。

当時は修卒業式には、クラスごと、優秀賞の授与などありましたから、名前を呼ばれると、おじいさんの面前でもらったような気分になり、嬉しかったものでした。

これも翁が講堂を寄付してくれたからだと感謝していました。(つづく)

 

 

(第11920回)