私たちは、浪江町に入るゲートに着いた、と思った。

そこにあったのは、

『通行制限中 この先帰還困難区域につき通行止め』という看板と、鉄のゲートでした。

だが、そのゲートを開けてくれる者がいない。

通行許可証は手にしているのだが・・・・・。

 

私たちが、その鉄のゲートを訪れたのは2015年8月。

それからでさえ、もう9年という歳月が流れた。

それは、福島に住む友人の思わぬ発想から始まった旅というか、冒険というか、無謀な発想から始まった。その無謀とも言える発想がなければ、これらの全てがなかった。

 

 

 

 

私たちは、いずれも引退していて、あちこち主に友人の発想で旅をしていた。それらはいずれも楽しい旅でしたね。友人でなくては、思いつかないような旅の連続でした。

ホントに素晴らしいものでした。

私たちの晩年というか、前期高齢者の生活を楽しいものにしてくれたのは、すべて彼のお陰であると言っても、少しも大袈裟ではないし、彼には、どれほど感謝しても感謝しきれるものではない。

 

この『鉄のゲート』を潜る旅も、そうした旅のひとつであるように、簡単なものであると思っていた。だが、少々、考えてみれば、そういうことであるはずがなかった。

それでなければ、こんな風に鉄のゲートがあるはずもない。

人を入れないために、このゲートがあるのでした。

 

 

鉄のゲートの傍には一軒の、民家であったろう、ものがあった。

が、それは・・・・・草木に深く、あまりに深く埋もれていた。

民家はカーテンで隙間なく閉ざされていたが、どういう思いで。このカーテンを下ろし、家の戸締りをしたものであろうか。ここには戻ることはあるまいということでは決してなかったろう。暫く留守をするだけということであったろう。

 

その日が、2011年3月11日でした。

その日から、13年という歳月が過ぎた。その日には、私は千葉県松戸にいたし、友人は福島県福島市にいた。

地震に揺れる家を、私も友人も外から眺めていた。しかし、その地震に伴い福島がフクシマに変わっていようとは、知る由もなかった。これを最初に知ったのは福島の地方テレビ局であったし、ほどなくしてNHKなども知った。それを実際に報じたのは、福島の地方局ただ一人のみで、その地方局の親局である日本テレビと、NHKなども、原発の爆発を報じたのは夕方の5時近い段階であった。そんなことを知る由もない一般大衆は、汚染された世界をさ迷い歩くことになった。

 

『皆様のNHK』は、本当のことをことを伝えたら国民がパニックなると、怖くなって報道できなかったのでしょうが、そういう中で・・・・彼らの判断基準の中に国民の健康、生命が・・・・・・『皆様のNHK』の判断基準の中にあったのかどうか・・・・・それは検証すべきだ。

そういえば・・・・NHKは、最近、『皆様のNHK』の標語を使っていないようだが・・・・もうやめたのだろうか。検証の結果、『皆様のNHK』でありえない自分たちを恥じて、その標語をやめたのかもしれない。

その際、NHKが受診料も受けてよいかどうかも検討すべきであった。

 

 

私たちが浪江を訪れたのは、それから4年後でしたが・・・・。

 

まさに、あの日、2011年3月11日・・・・・彼らの内心は夫も妻も、あるいは子どもたちも騒然とした思いであったのでしょうね。

手が震えるような思いで戸締りのカーテンを引いてもいたろう。何をもっていくか、いつまで逃げて行かないといけないのか、頭の中を無茶苦茶に駆け巡っていたことであろう。子どもたちは親にどうなるの?と聞きたかったろうが、親の必死の形相を見れば聞きたくても聞けなかったろう。

誰の場合でも、これが二度と家に戻ることはない、最後の機会になるとは思ってはいなかったろう。人生に二度とない時。恐らく・・・・何を考えても、考えがまとまらなかったろう。づどうすれば良いのか、誰も分からない。分かっていることは、自分たちが今いるいる地点から立ち去ることだけであったろう。

だが、どこに行けばよいのかも分からない。

とにかく逃げることだけが、家族の命題であった。

それは、何が起きたのかも分からない、誰もが経験したことが無い、まことに慌ただしい、尋常ではない、初めてのことでしたね。

こういうのを、パニックというのでしょうね。

避難しろと指示する者も、どうしてよいか分からない。

 

 

 

 

来週か、再来週には、帰宅する、帰宅できるという思いであったのだろう。

それは、そうだ。我が家は誰にとっても大事なもの。そう長く空き家にしておけるものではない。それぞれの民家から避難するとき、知識も情報もないなかで、ほんの数日か、長くても一か月とかという思いであったのだろう。

だから、空き巣に入られたりしないよう、シッカリ戸締りをして、慌ただしく退去したのですね。

 

だが、2015年。4年後、どの民家も空き家になって流れた歳月の長さを否応なしに思わせた。草木は、どの民家も軒下を深く埋め尽くしていた。しかも、家の傍には、こうした頑丈なゲートが設置されている。

人々の『我が家』は、もはや誰がみても、普通ではない。

 

私たちはというより、友人は係がいるゲート、新たなゲートを探しに向かった。

 

 

(第11916回)