いまのいままで気が尽きませんでしたが、この掲示板の下に、鶴岡市立「藤沢周平記念館」という掲示板がありましたね。この建物の中に、どうも藤沢周平記念館があったようです。この記事を書き終えて暫くしてから、初めて気が付きました。実は、藤沢周平記念館の存在自体も、藤沢周平の娘さんの著書を読むまで分かっていなかったのですが。この洋館の写真を撮ったときは、この洋館には入っていなかったので、藤沢記念館の事は知らずに終わってしまいました。誠に残念でした。

 

 

 

 

 

 

我らのプランナーにしてタフなドライバーが考えている行き先は、庄内藩の藩校である。

致道館という。

 

江戸時代の庄内藩が、藩士の子弟を教育、育成するために作った学校ですね。

創立年は1805年(文化2年)でした。

200年余り前になります。

酒井家9代目の藩主、酒井忠徳が創設した藩校でした。

酒井家は将軍家と格別に深い関係にあり、そのことが、子の藩主の名前に現れているのかもしれない。

酒井家が、東北のこの地にあるのも、そのことと極めて深い関係があるのだろうとも思う。

 

 

この当時、藩が藩校を創設するというのは、大いに流行したというか、どこも優れた藩士を要請する必要に迫られていたのでしょうね。

だから、多分、殆どの藩で、藩校の創設を盛んに行っていたようです。

福島県内でも、三春藩、磐城平藩、白河藩、棚倉藩、福島藩、二本松藩、会津藩などに藩校が設置されていたという。恐らく、各藩とも優れた藩士の育成は時代を生き抜くには是非とも有為な人材の育成が不可欠とされ必死だったのでしょうね。

1800年前後の頃に全国で相次いで設置されている。

こうして作られたが学校は後に、少なからず地域の名門高校などとして今日まで続くことにもなった。

 

時代の凄まじい大きな変化の中で、藩の生き残りのためには、優れた人材の育成は必須なことを、否応なく、どこも強く肌身に感じていたのでしょうね。

致道館も、そうして生まれた学校のひとつでした。

正直のところ、そういう学校の存在を私は少しも知っては居なかったが、行ってみると、生憎なことに、致道館は休館日でした。

 

今夜は鶴岡市内に泊まるから、明日、また・・・・ということになった。

 

 

 

 

ちなみに・・・全くの余談だが、この致道館が創設された時代というのは、どんな時代かを見ていたら・・・四国の土佐で、当時、『五右衛門風呂』ができたのだそうだ。五右衛門風呂が出来るまでは水風呂が普通だったらしいが、五右衛門風呂には実は、芋づる式だが、小さい頃の思い出が何かとある。

 

小さい頃・・・・であるが、小学生の頃であったが、夏休みであったと思うが、母親の実家、祖父母の家に、行ったのですね。その頃は、祖父母の家に孫たちが、良く集まっていたのです。夏休みには、いつも10人位は来ていたと思うが、そうした夏休みの時に、祖父母の家のお風呂に入ったのですが、これが五右衛門風呂だったのです。

我が家のお風呂は五右衛門風呂ではなく、五右衛門風呂は初めての経験でした。

だから五右衛門風呂の入り方がわからなかったので、お風呂のフタをお風呂に沈めることを知らずに風呂に入って大騒ぎになったことを思い出すのですね。

 

五右衛門風呂でまた思い出したが、この祖父というのが、面白い人物でした。

祖父は村の村長をしていたが、お酒の好きな人で、朝でも酒を欠かさない人でした。例え風邪を引いているときの朝食でも酒茶漬けというのか・・・お酒を絶やさないような人でしたね。そうした祖父が、役場が歩いて行ける範囲にあったからかもしれないが、ある時、背広にズボン下の姿のまま役場に行ってしまったとか・・・そういう武勇伝というのか、逸話に事欠かない人でした。

この祖父が亡くなったのは、私が20歳の頃でしたが、葬儀当日は台風が到来したようなときでしたね。当時の田舎の葬式は自宅で行うもので、参列者の皆さんには、いろいろな係があって、なにがしかの物を持って行列に並んでいくのですが、それが強風の中ですから、皆さん、自分が担当している葬具が飛ばされないよう必死に抑えていたのを思い出しますね。

 

思わぬことで、芋づる式に祖父の事まで思い出してしまいましたが、一族でダントツに偉い人で孫の私も叱られたこともありました。

あるときは、いたずらをして、祖父に薄い将棋盤で頭をゴツンと叩かれたこともありました。そういう怖い目にもあったが、孫たちは、夏休みというと、みんな集まってきたのですね。

恐らく親が行くように仕向けていたのでしょうが・・・・。

恐らく・・・そのせいで、この年になっても祖父母の事を思い出すことになるのですね・・・・。

 

 

あれから・・・・数十年。

祖父母のことを思い出すことは、いまや滅多にないが・・・・。

 

 

 

その鶴岡市内を歩いていて・・・たまたま「丸谷」という表札を見つけた。

かすかな記憶で、丸谷才一のこと?のご実家かと思った。

丸谷才一は確か、出は山形の鶴岡ではなかったかと思ったが、丸谷才一のご実家かどうか、それは不明だ。単にご親戚ということもあるかもしれない。

まあ…いずれにしても、どうも丸谷家はこの界隈にお住いであったらしい。

 

(第12000回)