国道6号線沿いの当地に越してきて、もう50年を超える。

もう茫々とした歳月が行き去った感がある。

 

地名も何も知らずに越してきたが、やはり住めば都ということかもしれない。

つくづく、そうも思うが、やはり長く住んでいたから都であったのではなく、亡母の母親である祖母が見つけてきてくれた妻が、50数年、共に一緒であった、常に欠点だらけの私の面倒を常に全力で見てくれたということの他に、真の理由は見つけようもない。

この妻があってこその、自分だという以外にない。

この妻がいなければ、私の人生はなかった。

そう断言して良い。

どこからみても、心底から、そう思う。

 

祖母の眼力には、感謝以外の何物でもない。

祖母は、まことに大きなおっぱいの女性であった。

そうした巨乳の祖母から生まれた母は、ちょっと寂しい胸であったからか、祖母が家に泊まりにきたときは、祖母の布団の中で、いつも寝ていたように思う。

その夫である祖父は村の村長であった。おっかないジイチャンでしたね。ワンマン村長であったらしい。夏休みには孫たちが大勢、泊りに集まったが、みんなジイチャンの傍には近づかなかったような記憶もある。だが・・・・いまから思えば、本当は子煩悩ではあったのですね。

昭和30年前後の頃の記憶であると思う。

祖父については、葬儀の日のことで、あの頃は土葬だったが、何だか、いやに荒れ模様で、いろいろなものが飛ばされそうな荒天であったことだけを、いやにハッキリ記憶している。

 

祖父母のことを思い出したのは、久しぶりであるし、ホントに断片的にしか記憶していない。申し訳ないほど思い出すことも少ない。こういうものであるのかもしれないが、今なら何か話すこともあったろうに…子どもの頃は祖父と何を話したのか、少しも記憶がない。申し訳ない。

 

 

 

夫婦二人で名前も良く知らない見ず知らずの当地にやってきて、そのうちに子供が二人生まれて、その子供たちも成長して、有為転変を経て、20年ほど前に、長男は信州の山なみを見ながら過ごしたいと、東京でのサラリーマンとしての実績を投げ捨て、殆ど唐突に彼女を連れて信州・松本に引っ越し、いまは・・・その思いを実現するかのように、そうした思いを看板に掲げた居酒屋を開業した。

激動の4年を越えた。まもなく5年になる。

 

それが殆どがコロナの真っ最中ということであった。

息子は開店するときに、閉店、休業が相次ぐときに、こういう時を乗り越えれば強い店になれると言い切った。理屈はそうだが、よりによって、こんな時に、というのが正直な気持ちでした。

何はともあれ、それは息子の決断であった。

恐らく、松本にやってきて、築いてきたという2000人を超えるという友人知人の信じがたい人脈が、息子の決意を後押ししたのだろう。実際、そういう友人・知人が開店の準備を何かと手助けしてくれ、業者に依頼する作業は殆どなかったらしい。カウンターの分厚いボードは材木屋さんが寄贈してくれたという。

 

娘は東京・町屋の駅上のマンションに居る。

娘は、数年前まで、都内各地の、ちょっと遠くにいたが、何を思ったか、比較的近くにマンションを買って越してきてくれた。

こうして近くに娘がいるというのは、妻にとっては、何とも有難いことらしい。

呼ばれると当然のように、何日は行きますよというし、呼ばれなくても、何かと娘のところに行く理由を見つけている。

 

そうした子供たちも、もはや中年の域に達した。

それに全く比例するように、私たち夫婦は、昔の頃には思いもよらぬほどの老境に達した。当然、もう親たちはいない。兄弟姉妹で亡くなったものもいる。

 

 

 

 

我が家は、国道6号線から100メーター位離れているが、越してきた当初は、国道6号線が見えたのに、いまは、間に家がびっしり建ってしまい、国道6号線は全く見えない。

国道6号線。

ご存知ない方のために、解説によれば、こうである。

 

東京都中央区日本橋から水戸市を経て仙台市に至る路線。仙台市まで福島県中通りを通る国道4号とは異なり、関東平野を縦断し、水戸から太平洋沿いに北進し福島県浜通りを通る。全線(特に千葉県から宮城県にかけての区間)にわたり常磐自動車道および常磐線と並走する。

福島第一原子力発電所事故に伴う帰還困難区域設定のため、福島県内の一部区間は許可車両以外の通行が規制されていたが、2014年9月15日からは自動車のみ自由通行が可能となった。

 

この国道6号線に交差するように、旧水戸街道が走っている。

昔の水戸街道の面影を断片的に少々ながら残している。

目を閉じてみれば、旧水戸街道の断片がある。

 

昔は、自分の足で、誰もが・・・・この道を歩いていた。

歩くというのは、いまは多少、特別のようにも感じるが、しかし、よくよく考えてみると、人々がそうしていたのは、そんなに古いことではなく、私が田舎に居た幼少の頃は、当たり前の光景でした。

実際、村の小学校までは4キロであったが、昔は一里といったが、山道の中を上級生も下級生も、6年生の自転車の荷台にカバンを積み上げて、子どもたちがバタバタと走って通っていたものでした。

 

帰りは、そういう風に走ることはなかった。細道を数人で歩いてくるが、時には蛇が横断というか、横切ることもあった。あるいは・・・夏の暑い盛りには、小さな川の中に、10数匹の蛇の軍団が身体を休めていて頭だけを出していた、こともあった。後に・・・・数十年後の夏に、その川の傍をわざわざ通ったとき、あの光景は見えるだろうかと思ったが、それはなかった。

あのとき見た川幅も結構あったように感じたが、 後に見た川幅は1メートル、いや50センチにも満たなかった。子どもの目には、そう見えたのであろう。

 

 

(第11940回)