柳津の圓蔵寺から・・・・次はどこへ?

 

 

 

 

途中、名旅館がある。

誠に立派なものである・・・・のだが、生憎なことに、旅館の前の川を挟んだ真ん前では、古民家の解体工事が無残に行われていて、旅館にとっては誠に迷惑なことになっていた。

無論、それは大分、以前の話。

既に風光明媚な景観を取り戻しているだろう。

 

 

 

 

旅の次の目的地は、会津・松平家の墓所である。

会津の殿様の墓所に行くのは、大分前だが、一度、妻と二人で出掛けたこともある。

その時には、少々、印象に残る事件?が起きてしまったことを思い出す。

 

 

 

墓所を探しながら車を走らせていたが、途中で場所確認と思い、ある不動産屋さんの店先に車を停めた。

応対してくれたのは、不動産屋の社長さんだったが、私が要件をいうと社長さんが、いきなり怒り出した。

「あれのせいで、会津は大変な目に遭った」というのである。

えらく怒っているのである。

眼の前に「あれ」が居るみたいに、怒っているのである。

 

まあ、正直、あっけにとられた心境でしたね。

社長さんが、「あれ」と言って怒っているのは、会津松平家の最後の殿様、松平容保のことであるが、私としては、いまの時代の「殿様」が親しまれている場面をテレビで観た記憶があるだけに、会津の殿様は誰もが地元の皆さんに親しまれているものと思っていただけに、一瞬、あっけにとられた気持ちであったが、話をきけばもっとものことであったろう。

 

 

確かに、会津は、いわば人身御供に遭ったようなものでしたが、戊辰戦争や、その後の戦後処理で、新政府に、ひどい目に遭ったのですね。薩長軍は江戸幕府打倒を目指したが、江戸城は無血開城となってしまい、この戦争の勝利者の立場を明確にしたい薩長軍は、これという標的を失いかけていた中で、その格好の標的と定められたのが会津松平家でしたね。

京都での新選組の後ろ盾にも見えた会津松平家は格好の標的でした。

会津鶴ヶ城は、東北の最後の激しい攻防戦の場所になっていった。

 

 

会津松平家は、京都所司代の役をいやいやながらも承諾したことから、その運命が始まっていった。いやいやであっても、江戸政権の代表としての役割を担ったのが会津の殿様、松平容保でした。

会津松平家は藩祖以来、尊王の気風に厚かったが、幕府の幹部がそれにつけこみ、会津を京都所司代という役職に据えることに拘ったが、いかに時流に疎い会津でも、その当時の京都所司代という役割が尋常ならざる困難なものであることを、会津の多くの者も理解しており、江戸にいた松平容保がやむを得ず「京都所司代」の役を承諾した時、それを聞いた会津藩の家老たちが、会津からわざわざ出てきて「この時勢に、この至難の局に当たるのは、薪を背負って火に飛び込むようなもの」と大いに翻意を迫ったが、藩祖の保科正之以来、将軍家大事に思う気持ちは特に強い家風に育った容保の気持を翻意させることは出来なかった。

時代にムダに翻弄されるなかで生きる以外に選択がなかったのでしょうね。

 

 

京都で江戸政権の代表として市内治安の安定を目指し、新選組を使い、ある意味「誠実」に京の治安に大いに努めた。

しかし、これが薩長らの大きな恨みを買うことになった。

 

ある意味、目に見えない遠くの江戸政権より、目の前の松平容保は分かりやすい格好の敵になった。松平容保は特に反薩長という気分が強いわけでもなかったろうに、将軍義昭は京、大阪から江戸へ逃げ帰ってしまい、立場上、否応なしに反薩長の代表として、表舞台に一人立たされていったのが会津の容保であった。

薩長軍の大きな標的となった会津は、城を枕に激しい攻防戦の末、ついには敗北したが、この江戸時代の最後の戦争は会津の人々を一層苦しめていくことになった。

 

 

 

(第12064回)