2024.06.24 | 松ボックリのブログ

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 獅子は我が子を千尋の谷底に突き落として、這い上って来た子供だけを育てる。それはあたかも韓国の統一教会が日本の小金持ちを贅沢は敵だ。統一教会がその悪徳を引き受けるから財産を総て統一教会に寄付しなさいと言う様なものだ。もう立ち直れないほど取り上げたのだから悪の道を登らなければ元の処までは這い登れない。

 つまり悪い事をして、ケロッと出来る人間しか育てない。ということなのだ。統一教会のお月様はその報いでブクブクと太り容易には動けない処まで行く。しかし人間でいる限りは煩悩から逃げる事は難しい。彼らには逃げ道があって、「自己御批判をすれば許されるだの、懺悔をすれば許される」だのと言って言い逃れる。「悪い事はやってない」などと要するに言葉遊びをしているのに過ぎない、

 相手の心の内に注ぎ込んだ刻印「良心の呵責」と言う地獄に落とし込まれた奴がバカなのだとうそぶく。笑いながら言ってる事が本心なのだが、全員が全員、極楽に入れる訳ではないが、同じ事を他人にやって登ったのだから、手の内をばらす事は出来ない。

 谷川のどん底を流れても世の中に出れるが、山頂に大勢の人間が住めるわけではない。稜線をズルズルと落ちても人を陥れながら生きる以外にない。崖を登っても、谷底を転がっても棺桶に入るまでそうやって生きる以外にないのだ。

 中には自分の立ち位置が決まってもなお良心の呵責に陥らない様にしろを説教を垂れる輩がいる。人間は心清く生きなければならないと美しい言葉を並べても自己満足に過ぎない。

 煩悩の達成をしなければ人類は滅びるのに、なんで宗教家は煩悩の達成が悪く、煩悩の達成を邪魔するのが善行だと説くのだろう。まるで悪人が頂上に登り易くするだけなのに。

 近所に青春を共に生き抜いた友人がいた。挫折して広島に戻って 冗談を言いながら旧友を温めていた。そして俺のお嫁さんの顔を見て、急に苦い顔をして帰って行った。その態度を後ろから見ていて「なんでだろう」と気になって仕方がなかった。それから三週間ぐらいして彼は同じ仲間で交わした予告のような交通事故で死んだ。気になって仕方がない。