大江健三郎さんが小説を書く際に大事なのがあれである。

「ともかくそうした孤独な作業が続き、小説がある段階まで進むと、そのうち仕事をしているのが短編であれ長編であれ、私は妻につぎのようなことを告げる進み行きになるのだった。たいていは、夜明け方に寝て、正午近くやっと起き出してきた朝食のテーブルで、―あれがやってきた、もう大丈夫だ」(p.178)

いったい「あれ」とは何なのか?

「あれとは、日々小説の文章を書きついでゆく精神と肉体の運動が滑走路を準備して、そこから自分にも思いがけない滑空に向けて走ることになり、それまで地続きに展開していた小説が別の次元に到る、それをもたらす力である」(p.181)

いわゆる「神がおりてくる」ような状態だろう。ただし、ここで大事なのは、とことんまで準備し、自分を追い込まないと「あれ」はやってこないという点だ。

自分の仕事でも「あれ」が来るような準備をしたいと思った。

出所:大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮文庫