読書 原田マハ著「サロメ」
原田マハ著「サロメ」2017年 文藝春秋
を読みました。
確かに、筆運びは良く、ところどころ古い言い回しはあるけれど、歯切れの良い文章も読みやすい。次々と読み手に先を気にさせるサスペンスチックな構成も良く、一気に読んでしまいました。
けれど、読んでる間も、読み終わっても、オスカー・ワイルドとオーブリー・ビアズリーを冒涜しているような感じが拭えず、不快感が残りました。
読み終わって、巻末を見ると、「本作は史実に基づいたフィクションです。架空の人物に特定のモデルは存在しません」と書いてありました。
イヤイヤ、登場人物は、架空じゃなくて、実在する人物じゃん。出来事も史実に合わせてあるし。
確かに、作者の作家としての力量は感じたけれど、ワイルドとビアズリーをこんな風に描くとは😣
不快を感じた理由は、主につぎの2点
① 登場人物の性に関する部分の描写
・オーブリー・ビアズリーの性的欲望を垣間見せる部分の描写。
・姉メイベル・ビアズリーと劇場主との性関係に関する表現描写
・ダグラスがメイベルを脅すために、とった行為とそれに対してのメイベルの反応
② 姉メイベルが、弟とワイルドの関係を引き裂く一方で自分が舞台での主役を得るために、弟やダグラスの感情を利用して、嘘をつき策略をめぐらせるストーリー。
①に関しては、えげつない表現描写が登場人物を貶めているような感じ。
②に関しては、人が真剣に誰かの愛を求めているとき、信頼している人間がその信頼を裏切って、その人に絶望を与える行動をとることは、その人の心に死ぬほどの打撃を与えるものだと思えるのに、姉メイベルがそのような行為をする人間として描かれている点。
この本の中では、オーブリーが訳して、ワイルドに渡すようメイベルに頼んだサロメの英訳を、メイベルは、渡さず、ダグラスとの駆け引きに使ったストーリーになっています。これって、オーブリーの心を殺すほどの悪事じゃないの?
これによって、オーブリーの寿命が縮まったといえるかもしれない。
サロメの英訳は、オーブリーではなく、ダグラスが引き受けたというのは史実だけれど、その経緯にこの本のようなことが本当にあったのでしょうか。それとも作者の創作なのでしょうか。
参考文献にあるワイルドやオーブリー・ビアズリーの伝記に関するものは読んでないのでわかりません。いずれにしても、事実であろうとなかろうと、純真な若者の熱い真っ直ぐな思いを嘘をついて駆け引きに使う人間のストーリーは、不快でした。
作者の創作なら、ワイルドやビアズリーを貶めているように感じました。
確かに、作者は文才があるけれど、オスカー・ワイルドやオーブリー・ビアズリーがどんな感情・感性・価値観を持って生きていたのかその感情生活までは本当のところはわからないのでは?
その感情的な部分を、オスカー・ワイルドやオーブリー・ビアズリーという実在の人物の名を使って描き出すこのような小説を書いてほしくないと思いました。
作家としての才能は、オリジナルの創作で発揮してほしいですね。
まあでも、考えてみると、歴史小説と呼ばれるものは、ほとんどこうした手法で書かれているのでしょうね。
オスカー・ワイルドの『サロメ』の英訳版にビアズリーが挿絵を入れているということさえ忘却の彼方だったので、本棚の中を探してみました。
すると、昔、学生時代に購入した岩波文庫の『サロメ』が出てきました。100円って😅
挿絵のビアズリーの絵を見ると、
Wikipediaには、ワイルドは、ビアズリーの絵が日本的なのがあまり気に入らなかったとありましたが、確かに二番目の絵は、日本的ですね。
一番目のサロメもインパクトがあります。
ビアズリーの名前とこの絵は頭のどこかにありましたが、「サロメ」の絵といえば、私にとっては、モロー の「出現」でした。
画集でも、展覧会でも、印象が強かったので。
モロー の「出現」です。
でも、ビアズリーの絵が、日本の漫画家に影響を与えたというのは納得。
私は、山岸涼子さんの『日出処の天子』が漫画の中で一番好きなのですが、確かにその画風にはビアズリーの影響を感じますね。
ビアズリーを再認識するきっかけにはなりました。
モロー と同じくサロメを描いた画家であったことも。