知り合いに「エホバの証人」の方がいます。
王国会館(統一教で言う礼拝の場所)に行ったりしたこともあります。
証人は伝道は義務化で誘われますが、もちろん入信していません。
エホバ自体が、掛け持ち入信ができないですし、どんなに誘われても今の自分に元気があるはずもなく。
その証人の方とたまに、お話をします。
色々な宗教があり、ここにも深い世界があるんだなぁって思います。
統一教は基督教と謳いながらも、経典は「聖書」ではなく「原理講論」で
エホバのように、礼拝で毎回 聖書を読み解く文化はあまりありません。
統一教では、什一献金(十一献金)があります。
十一献金というのは、旧約聖書の概念です。十一献金は律法の要求するものでした。すべてのイスラエル人が自分で稼いだもの、生産した物すべての10%を、幕屋/神殿に捧げなくてはならなかったったのです。(レビ記27章30節;民数記18章26節;申命記14章24節;第2歴代誌31章5節)旧約聖書の十一献金は、いけにえの組織を預かる祭司やレビ人の必要に備えるための徴税の方法であったと理解する人もあります。新約聖書のどこにもクリスチャンに律法的な十一献金に従うようにと命令しても、勧めてもいません。 パウロは、信者は教会を支援するために収入の一部をとっておくべきだといっています。(第1コリント16章1-2節)
から、きているのでしょう。
統一教が率先して始めたのでなく既存のキリスト教で行っています。
早い話が、収入の10分の1を捧げなさいです。
エホバでも例に習って什一献金がありましたが、何年か前に廃止になりました。
各自いやいやながらでも,
強いられてでもなく,ただその心に決めたとおりに行ないなさい。
神は快く与える人を愛されるのです。
(コリント第二9:7)
この、聖句によってです。
つまり、献金は強要を強いるものでない。
シックでも「献金は感謝してやるもの」と言いながらも、全くをもって、それが伴っていませんね。
なぜなら、統一教では目標金額と期日が決まっている摂理。
聖書に忠実なエホバの世界では、決してありえません。
自分の教会は、礼拝時の献金袋(個人専用で名前入り献金袋)に、
日付と献金額を記入することが義務でした。
これもエホバはもちろん、数あるキリスト教の分派でも
誰がいくら出したか(献金したか)を記録させることはありえません。
なんか、エホバの証人の肯定意見のようになってしまったけど、今回はここまで。
あと、ピグライフで元シックの先輩二人とお話ししたので画像を載せます(・∀・)/