ちょっと前からアマプラにあがっていたので、観たかった作品。

 

監督の長谷川和彦は寡作ながらその激しい生き方で、カルト的な人気を博している。

原爆を作って国を脅迫するという衝撃的な内容だが、そんなタブーを扱えたのも、長谷川自身が胎内被爆者であるという事実があったからだ。

 

戦後30年あまりのこの時代に、原爆、それも反原爆・核ではなく、原爆そのものを犯罪に使うというテーマを扱うこと自体、現代では考えられないのだが、物語の冒頭で主役の城戸誠(沢田研二)と、彼を追うことになる刑事・山下(菅原文太)が出会う事件は、伊藤雄之助演じる元日本兵が天皇に会ってモノ申したいという案件で、皇居に突入するシーンが出てきたり、これまたセンシティブな内容だ。

 

敢えてタブーに挑んだ以外でも、4年前に公開された「新幹線大爆破」もそうだったのだが、許可が降りないシーンはすべて無許可のゲリラ撮影、というのも時代を感じる。

コンプライアンスに縛られている現代ではありえない撮影方法で、画面からにじみ出る緊迫感はまさに時代の息吹が感じられる。

 

そのあたりの制作秘話や時代背景はWikipediaからも読み取れるが、一度当時の文献なども読んでみたい。日本映画界が活況を呈していたあのころの、映画人の情熱に触れてみたいからだ。

 

2時間半近いストーリーだが展開が早く、中だるみするところもないのであっという間に終わってしまう。

ジュリーこと沢田研二は色気があり、危険な香りが全身からにじみ出ているかのよう。

都会の片隅で孤独に生き、次第に妄想を膨らませてやがてとんでもないものを作ってしまう。

高度経済成長の日本がバブルに差し掛かる前のこの時代に、映画は後年城戸のようなタイプの犯罪者が出現してくるのを予言していたかのようだ。

 

原爆というセンシティブな題材を扱っているが、原爆はあくまで物語のいちファクターに過ぎない。城戸が内面に抱え込んでいる、モヤモヤとした言語化できない何かが、原爆という形になって表れたのだろうか。

自宅のアパートでひたすら原爆制作に没頭する城戸は、どこか活き活きとしている。

しかし、完成した後の城戸はまるで生きる気力を失くしてしまったかのようだ。

本当は彼は誰かと内に秘めるモヤモヤしたものを共有したかったのではないだろうか。

それが皇居の事件で出会い、危機をともに乗り越えた山下刑事だったのかもしれない。

 

城戸が爆弾魔と知らず執拗に追いかける山下だが、そんな彼から必死に逃れようとする城戸は、少なくとも生きようとしていた。

原爆制作過程で被爆してしまったことを知った時も、生への執着を見せていた。

しかしラストシーンで山下刑事と対峙し激しい格闘の末、ビルから落下、山下刑事は即死するが、城戸は奇跡的に助かる(このシーンは冷静に見たらかなり面白いのだが、、、、)。

山下の死を目の当たりにした城戸は、渋谷の街を原爆を抱えたまま、夢遊病者のように歩いていく。

 

唯一の自分の理解者(だと一方的に思っていた?)山下の死は、彼に死への扉の向こう側に行く決心をつけさせたのか。

物語はこのあと、ブラックアウトして原爆の爆発する音で終わる。

衝撃的なラストシーンだ。

 

その当時の時代の空気を色濃くフィルムに残す作品こそ、名作と呼べるのではないだろうか。だとすれば、「太陽を盗んだ男」は名作だろう。

だが、タブーに敢えて挑んでいた昭和の作品に比べ、現代の映画作品はそこまでの挑戦ができない環境に置かれている。

 

映画は昭和の頃の文化、人々の生き方、思想が良く見えるという点で後世へと引き継いでいくレガシーの価値がある。

果たして今の映画にそのような価値があるだろうか。

 

色々考えさせてくれ、なおかつエンタテインメントとしては最高に面白かった。

見るべき昭和の映画遺産としてお薦めの作品と言える。