ここ数年のドラマのうち、物語の最初と最後でこんなに違った展開になるお話ってあまり記憶にない。

 

自閉スペクトラム症の主人公・八重森ありす(門脇麦)が「料理は化学」という視点で、美味しい料理を作り、様々な人と関わりつながっていくヒューマンドラマだと思って見ていたのだが、途中から2時間サスペンスのような展開になっていき、正直かなり戸惑ってしまった。

 

最近は「きのう何食べた」や「作りたい女と食べたい女」などのようなLGBTQや、「初恋ざらり」のような知的障碍者が主人公だったり、ドラマの世界もダイバーシティが進んでいると感じる。「厨房のありす」も韓国ドラマの二番煎じとか言われながらも、面白いテーマだと思って期待していただけに、この展開は個人的には違和感があった。

 

ありすと他者、彼女をとりまく世界との関りを重点的に描くことで、相互理解や他者を思いやる気持ちの大切さが感じられるドラマを期待していたのだ。

 

ただ、最終話のクライマックスシーンでありすの本当の父親である五條誠士(萩原聖人)に自分が本当の父親だ、と言われたありすが自分にとっての父親は、たとえ血がつながっていなくとも共に時を過ごしてきた八重森心護(大森南朋)なのだ、と訴えるシーンは純粋に感動できた。

 

化学こそがありすの信じるすべてであり、論理的帰結を重視し世界を見ている彼女が、論理で測れない感情で自らの意思を貫いたというこのラストを描きたいがために、2時間サスペンスが必要だったのなら、納得だ。

そこに至るまでに永瀬簾演じる酒江倖生との恋があり、ありすが人を愛するという感情を初めて持ったというのも、このラストにつながっている。

 

ここ数年、息苦しい世の中を憂うようなドラマが多い。

このドラマも「普通」というあいまいな概念を一方的に強要してくる今の日本の社会に、「違う」ことへの理解と尊重の意味を問うている。

 

ありすの店に来る客たちはみんな何かに疲れている。

そんな人たちを優しく迎え、身も心も癒す料理を提供してくれるありすは、一般的には「普通」の人ではない。

でも彼女が「普通」の人だったら、あんなすごい料理は作れない。

違うことを尊重し、お互いが支えあう社会こそが成熟した社会なのだろう。

 

門脇麦はなぜこんなに複雑な背景を持つ人物ばかりを演じるのであろう。

チャレンジングにもほどがあるというか、一般的に癖の無い役というのはほとんど記憶にない。本人もそういった難易度の高い役を演じることに快感を感じているのだろうか。

 

共演者に前田敦子、木村多江、北大路欣也(特別出演。まさかの悪役かと思ったら、そうではなく最後はしっかり持っていかれました。。。笑)、皆川猿時、大東駿介、阿南敦子。

大友花恋は、久しぶりに見たら大人になっていてびっくり。

金沢美穂、渡辺大知のカップルに、竹財輝之助、近藤公園、終盤の重要な役で岡部たかしも出演。ありすの亡くなった母親役に国仲涼子が。

 

駐在時代は毎日個食だったし会社で食べるお昼は忙しくてほとんどかきこんで終わりだったから、料理を味わって食べることがほとんどできなかった。

4月からは、もう少味わって食べる余裕ができたらと思うが、、、