この映画は、是枝監督の提示したテーマを色々な解釈ができ、ネットでもそういう考察があふれているので、敢えてそこは触れないで、、、、
役所広司の鬼気迫る演技と、それを全身で受け止める福山雅治、そして重厚感あふれる絵作りで見ごたえがあった作品。
是枝監督の作る絵は、構図、光の陰影などとても印象に残る映画が多い。
アーティスティックな側面もあるし、気づかなかった日常の風景にスポットを当てる巧みさもある。
一つ一つのシーンやセリフが絶妙に物語の核心と絡み合っているため、一度見ただけでは理解が深まらない。
だからこの作品に限っては見終わった後、気になるシーンをもう一度見直してみた。
司法の限界というか、本来あるべき司法の役割や意義を問いただすという意味では社会派的側面もあるが、それでも家族を描き続けてきた是枝監督らしい視点もしっかりと存在している。
2時間の本作品のうち30分近くは(もっとか?)、福山雅治演じる重森弁護士と、役所広司演じる三隅の接見シーンだ。
この二人のやり取りが見どころでもあるが、最後の接見シーンでのやり取り、
三隅が重森にこの事件の解釈をゆだねると、重森が「あなたは器なのか」と語るシーンがある。これは映画の冒頭で、品川徹演じる警官が三隅のことを「空っぽの器みたいな男だった」
というセリフとつながっている。
その真意は何か、と考える。
すなわち、三隅という男の存在、行動は彼自身しかわからずそこにある事実をどう受け止めるかは、その第三者であるもの次第、ということ。
三隅は器であり、その上に載る料理は料理を食べる人の感じ方次第、みたいなもの。
そういうことなのだろうか。
そう考えると、真実は誰にもわからない。
だからこそ、司法が感情やもろもろの雑音・雑念、主観的観測などを徹底的に排除して、冷静に裁かないといけない。
しかし、実際の司法は機能していない。
更に、人が人を裁くことの意味とは?
と、非常に奥深い問いかけとなっていってしまう。
ラストシーンで十字路の真ん中に佇む重森を映し出す。
上空にはこれまた十字に重なった電線が。
この映画の中で象徴的に表現されていた、十字。
それは、それぞれ三隅、広瀬すず演じる咲江が背負った十字架の象徴だ。
しかし、最後に重森自身も今回の事件で、もしかすると無実の人間が死刑となったのを止められなかったという、十字架を背負ってしまったのかもしれない。
どこまでも重いテーマだ。
広瀬すずの演技力を引き出した演出、彼女の演技力。
ともに素晴らしいと思った。