赤れんがパークから車で5kmほど北に走ったところにそれはあった。

シベリアや満州からの帰還者を一手に受け入れたのが、ここ舞鶴港だった。
その歴史の一部をここで見ることができる。
いわゆる箱物資料館のためあまり期待はしていなかった。
実際に中を見学しても、わりと素朴な内容だったが十分に勉強になった。

館内では高齢者の団体さんが見学していた。
スタッフである語り部のおばあさんと話しており、B29による空襲を受けたとか、そういった話が飛び交っている。

そのおばあさんが話してくれたのだが、抑留者を運ぶ船の中で死んだ人を水葬する場面に立ち会ったという。なんだか実際にそういう話を聞くと辛くなってくる。
もう遠い昔の話なのかもしれないが、そういった悲しい事実が現実にあったのだ。

シベリア抑留者の話は山崎豊子の「不毛地帯」などで知ったので興味があった。
マイナス30℃の極寒の地で、パン一切れの貧しい食事のみで過酷な労働に耐えて生き延びた人たちと、故郷の土を踏むことなく無念の死を遂げた人たちの間にあったものは何だったのか?
MATTたち現代人だったら、すぐに死んでただろうな。。。
そんな中でもある地域では、さほどの重労働を課されることなく現地の人たちと交流を持った日本人もいたとあり、少しほっとさせられる。

だがソ連が宣戦布告してきたのは戦争も末期の時期、もう少し日本が早く降伏していればシベリア抑留者という悲惨な歴史はなかったのだと思うと、当時の政府と軍への怒りが抑えきれない。

シベリア抑留者が書いたという書簡も多々展示されていたが、物のない中で必死に故郷の家族に書いた手紙は、どれも文字から気持ちがあふれていて、しばし見入ってしまう。

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展望台より舞鶴湾を望む。

記念館から車で数分の場所に引揚者が上陸した桟橋を復元した場所がある。
行ってみると、それはひっそりとそこにあった。

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慰霊碑の前で合掌する。

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オリジナルではないが、この桟橋で帰ってくる家族を迎えたのだろう。
あの岸壁の母のモデルはまさにここである。

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みんなこちらの方面をみやって、引揚船を迎えたのだろうか。

MATT一人きりだったので、しばし潮騒を聞き潮の香を吸い込んでみた。
80年近く前に、ここで同じように当時の日本人が潮の香を嗅ぎながら家族を待っていたのかと思うと、妙にセンチメンタルな気分になった。

しばらくすると先ほどの高齢者の団体さんがバスでやってきた。
おじいちゃん、おばあちゃんたちにとっては忘れられない体験だろうし、昨日のことのように思い出されるに違いない。
でも、そんな高齢者たちももうあと何年もしたらこの世からいなくなる。

日本の歴史教育は近代史をほとんど教えようとしないが、それでいいのだろうか。
今の日本が尊い犠牲のもとに成り立っている、ということを教えられないままに育った日本人に、平和を謳歌する資格はないのではと感じた。

先の戦争で無念の死を遂げた多くのご先祖様に恥ずかしくない生き方をし、この国がこれからも平和と尊厳のある国であり続けられるようにするのが、自分たちの役目だろうと思う。

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桟橋にて。
FD2、今日も一日ご苦労様でした。。。