新年あけましておめでとうございます。

今年最初のブログになります。ふと昨年はどんなブログで始まったか読み返してみました。

作り手の怒り

…というわけで穏やかでない出だしでしたね(笑)。

でもあいも変わらず大口の取引先からは“安心・安全”の「加工製品」であるべきとみなされているもやし。私どものように「野菜」の観点から営んでいる小さなもやし屋にとっては苦しい状況であることには変わりありません。

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 飯塚家は元々「食べることが大好き」で、美味しい食事をとる時間が「飯塚家の絆」でありました。そんな私たちでありますから私たちが作って売るもやしも「もやしらしいもやし」であることは当然でありました。私たちが信じる「もやしらしいもやし」が地元を中心とした多くの人に喜ばれて食べてもらえることが幸せでありました。

 それがいつの日か、私たちが信じてきた「もやしらしいもやし」は「そんなのはもやしではない」ともやしを作る人でなく、もやしを沢山売る人たちから否定されるようになりました。もやしを沢山売る人たちにとっての「もやし」とは、

・身が太くて真っ白で

・根っこが短く豆がなくて

・一週間たっても色が変わらない

…そんなもやしのことでした。私たちがずっと作りつづけてきた「豆の養分と水だけで、もやし本来の成長力を活かした」やり方ではとてもそういうもやしは作れませんでした。とても一週間過ぎても色の変わらないもやしなど作れないし、そういうもやしはありえないと思いました。父と私は「そういうのこそもやしじゃない」と沢山売る人に反発し、変わらず自分たちのもやしを作ってきましたが、この25年足らずで売る人だけじゃなく、使う人、食べる人までが「こういうのはもやしじゃない」と言い出して、私たちが作るもやしを非難しだしました。味は変わらないのに。何も大きな間違いもしていないのに。もやしを作らないで、もやしをよく知らないでもやしを沢山売る人たちが創作した大きな物語によって、もやしを巡るすべてが塗り替えられた…そんな四半世紀であったと思います。

食べ物の価値とはいったいどこにあるでしょうか。

見た目?日持ち?

 よく枕詞のように誰もが「安心・安全」といいますが、もやしに関してはいたってシンプルであります。近くにいる信頼できる生産者の新鮮なもやし、それに尽きます。成長の早いもやしの「安心・安全」は時間の経過と移動距離の長さと共に失われていきます。私は「もやしとはそういうものだ」と考え、それ以上どうこうしようなどとはまるで考えてません。また行き過ぎた安心・安全を追い求めるともやし本来の旨みが失われていきます。旨みが感じられないもやしはもやしではない。もやし屋としてそんなのは人様に食べさせてはいけない。そんなのを食べさせて金を取ってはいけない。食を愛する作り手であるゆえに、父も私もその立ち居地でもやし屋を続けてきました。いつのまにかこの立ち居地が逆風に向かうことになっても、もやし屋としての存続が危ぶまれるほどになっても、食を愛する作り手という矜持が深谷のもやし屋、飯塚商店にはあるのです。

 ここ数年では、逆に多くの食を愛する人が飯塚商店を訪れては、私たちの信じる「もやし」に触れ、食べて、まるで目からうろこが落ちたように感動していきます。

「なんでこんなに美味しいんだ?」

「もやしってこんなに味があったのか?」

 多くの人が驚いてそう感嘆するのを聞いて、今までの流れはなんだったのだろうかと思います。晩年失意のまま病に倒れ、もやしから離れ、一昨年他界した創業者である父英夫。現役時代も強い信念のもと沢山売る力を持った人、つまり量販店のバイヤー相手に一歩も引かず、

「好きにしやがれ。いつだってやめたって構わない。俺は好きなようにやればいいだけだ」

と啖呵をきったことを思い出します。負けん気の強い父でしたので多分に強がりであったでしょうが、父の言った「好きなようにやる」は「もやし屋の身の丈に戻る」であったと当時の父の年齢に近づきつつある私はそう感じるのです。

 深谷のもやし屋、飯塚商店は量販店の規模拡大に途中まで追従しつつ収益を上げてきましたが、「食を愛する作り手」であることが裏目に出て、量販店が創り出した物語を否定し、そして取引の激減、没落の一途を辿りました。父の意志を引き継いだ私は、最終的に父が目指したもやし屋としての場所、「もやし屋の身の丈」に還ることを望みます。まだまだ生産者の信じる正義が通用しない社会、どこまで進めるかはわかりませんが、

「身の丈のもやし屋」

に還ることを今年の目標にしていきます。どうか皆様よろしくお願いします。



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