先月「cafe-NINOKURA」 で開催された
『もやしカフェ 』
で新聞社の取材を受けていたときです。もやしとは別に現在の食のあり方で話が盛り上がり、ふと記者の方が以前取材をした富山の米農家の話を持ち出してきました。大変熱心な米農家だというのですが、その方が
「自分の米をPRしようにもなかなか米で差別化するのは難しい・・・」
と記者に語ったのだそうです。
確かにそう思います。みな一生懸命取り組んでいる方々が生産する食は、
『どれも美味いのは当たり前』
でしょうし、それらを食べる私たちの嗜好だってバラバラであり、そんな美味しいものが当たり前の土俵から他を引き離すだけの差別化はどう考えても難しいでしょう。
そんな中、一部の関係者はすぐ糖度計を用いて農作物の
「糖度の高さ」
ことを差別化にする傾向がありますが、それは実に幼稚で浅薄な基準づくり。「甘さ」だけで食べ物の価値は計れません。作物の見た目だけで「知事賞」とか「市長賞」などと格付けをする品評会と同じ実の無い行いだと思います。
話がずれましたが、ではきちんと作られた食べ物の差別化は本当に出来ないのか、と結論付けられるかといえばそうでも無い気がするのです。・・・・と、いうのは食べ物の差別化は難しくても、
【それを作る生産者の差別化は出来る】
と思うからです。
どれもが同じに美味しいものであれば、みなさんはそこから別に何を選択基準に持ってきますか?
私なら
【生産者の想い】
を考慮します。
大きく書きましたがこれも当たり前の話で、たとえば家族という単位であれば、子供たちは遠くの有名な野菜名人より、親が作る野菜を心情的に選ぶでしょう。味、見た目のレベルじゃありません。親だって子供のことを考えれば決してヘンなものは食べさせない。そこにはわが子への想いという強い意思が込められているからです。
絶対的な食の信頼がここにはあります。
それと同じで食作りにおいてまっすぐかつ明確なメッセージを放っている生産者がいれば、私はその想いに共感する形で彼が作る食を選ぶでしょう。どちらが美味い不味いの問題ではありません。生産者の想いに納得できるかどうかの話です。もちろん生産者と消費者の距離は近いにこしたことありませんが、想いの感じられない隣人より、想いが響く遠くの友を選ぶようなものでしょう。
いち零細もやし生産者の立場から言わせてもらいます。
もし自分の作る食に自信があるのならば、生産者はどんどんその食への想いを伝え広げるべきだと思います。ネット社会の昨今では想いを伝える、広げるのは難しいことではありません。
生産者のまっすぐな自信・志は必ず生活者の共感を得ます。それが一番正しい形の食の差別化になると私は信じています。
