現在、深谷のアリオ(イトーヨーカドー)において地域活性化を目指す深谷市産学官連携プロジェクト『ゆめ☆たまご』のイベント、
【ほんとう 】
が展開されています。
深谷のもやし屋、飯塚商店もこのイベントに参加、もやし屋の私が信じる“ほんとう”を多くの人に伝える活動をしています。
その初日、11日水曜日のこと、私の同郷の友でありもやし屋の活動をサポートしてくれている、教育者兼ライターである小林真 が、ほら、とびっしりと文字か書き込まれた数枚の用紙を渡してきました。その最初の文字は、
『1971年のブラックマッペ』
とあり、以前からこのタイトルだけは聞いていた私はすぐに『ああ、とうとう完成したんだな・・』と悟りました。
小林真の了承を得て、ここに友から贈られた一つのもやしの物語を紹介します。
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『1971年のブラックマッペ』
小林 真
―故・飯塚英夫氏に―
1971年。
米ビルボードの年間チャート一位はスリードッグナイトの Joy To The World 『喜びの世界へ』 で、日本レコード大賞は尾崎紀世彦『また逢う日まで』。日本のとなり台湾に代わって中華人民共和国が国連の一員となり、埼玉のとなり群馬では大久保清の連続女性殺人事件が起こった。米ワールドシリーズは4勝3敗でピッツバーグ・パイレーツがボルティモア・オリオールズを下し、日本のオールスターゲーム第一戦では阪神の江夏豊投手が伝説的な九連続奪三振を達成している。学生運動の盛んな時代に青春を送り、自ら命を絶った女子大生高野悦子の日記『二十歳の原点』が刊行され熱狂的に迎えられた一方、無国籍テレビマンガ『ルパン三世』が放送を開始し、後の評価とは裏腹にまったく視聴率が上がらなかった。
先にあげたのは、いずれも前者が当時小学校二年だった私の関心のらち外にあって後から知ったことで、後者はよくわからないにしても記憶に残っていること。夏は太陽に熱された田んぼの放熱が地表近くによどみ、冬は赤城おろしがしめり気を奪う、ディープ関東平野の農村に生息していた小学校低学年の記憶はまだらだ。
そして、日本人の多くがおとなり中国に棲む「パンダ」という生き物の存在すら知らなかったこの年、もし数え上げることが可能だとしたらそれこそ天文学的な数になるはずの「出来事」の一つに、私が初めて食べた「もやし」のことがある。それが「1971年のブラックマッペ」だ。
まだ台所は土間でかまどと電気釜が併用されていたわが家にのこたつの上に記憶の限りでは初めて現れたもやしは、同級生飯塚雅俊君の家に遊びに行き、彼のお母さんにもらったものだった。東京駅のレンガもつくったという煉瓦工場の近くにあり、これも後からきいた話では煉瓦工場の働き手相手に営まれたという女郎が住んでいたという飯塚君の家。それは現在人口五千人ほどの学区の中でもうちとは東西正反対の位置にあたり、五キロ離れた街にはまだ自分の自転車で行ったことのなかった小学校二年の行き先としてはけっこうな冒険だったような気がする。
じっさい当時の飯塚君の家、もやし製造業飯塚商店の周辺は冒険の宝島だった。
派遣切り問題より太平洋戦争の方が近かった1971年。今は地域体育祭会場となっている浄水センターグラウンドのあった場所には造兵廠跡地で防空壕の廃墟が小学二年には巨大な穴を広げ、三年後に「日本の『小さな恋のメロディ』」といわれた映画『恋は緑の風の中』の舞台となったレンガ工場はすでに去った大正浪漫の色彩を残した廃墟として育成しつつあった。
そして、その頃まだ機械は導入されていない飯塚商店のもやし工場。今当時あった場所を見るとそれほど広くはないのだが、八歳だったわれらには学校の講堂くらいの広さに感じられた。光を避けるために真っ暗な工場内は、これも後で知る「ムロ」という名の栽培容器の中で芽を伸ばそうとする豆たちが放つ、まるで成長期の更衣室のように香ばしい薫りが充満していた。
考えてみるとそれは、私にとって生まれて初めて入った「工場」だったかも知れない。
飯塚君や数人の友人たちと何をしていたかはわからない何かをして遊んでいた時、誰だったかがはずみでもやしの原料である豆が入った大きくて青いポリ容器を倒してしまったことがある。
「シャッ」
という短い音とともに薄暗い灯りに広がる黒い豆の軽やかさ。
「ああ…」
まだ、われらの間に「やばい」という形容詞、いや、感動詞はなかったはずだ。
「大変だ」
とかいいながら、広がった豆を青い容器に戻す。ざらざらしたコンクリートの上の豆を、これ、誰か食べるんだよな、と思いながら容器に入れたが、作業を終えた小学二年の目にはほかの容器よりちょっと少ないように思えた。
「お父さんにはいわないでおこう」
責任者の飯塚君がそうからには、われらが反対する理由はない。何か取り返しのつかないことをしてしまった気がしたのは八歳だったからだろうが、ともかくその日は沈んだ気分で二キロの道を自転車で帰った。次の日の学校でお父さんにばれたかどうかきくと、飯塚君がまじめな顔をして、
「何とかばれなかったみたいだ」
といったのをおぼえている。
飯塚商店について多くを知った今なら、当時の青いポリ容器が今の銀色の金属製の容器だろうことは想像がつく。そして「ムロはもやしの畑」という飯塚君がいう通り、当時も今も飯塚商店のムロは私が何度か連れて行った小中学生でもいつでも入れてくれる。
話を戻そう。初めて食べたもやしのことだ。
確信はないが、たぶんポリ容器の日ではない。確か冬のことである。煉瓦工場あたりで遊んできた私たちに、飯塚君のお母さんが商品であるもやしを配ったのだ。
農村で地元の中学教員だった私の父はPTAの関係で飯塚家によく来ていたので、飯塚君のお母さんは母も知っていた。
「これ、お母さんにね」
とビニールに入った、不思議なかたちの野菜を渡された。
小学二年生にとって世のほとんどが奇妙だから、もやしくらいの奇妙さはどうってことない。それより赤城おろしが吹きすさぶ寒さの方が一大事で、真っ暗な田んぼ道を二十分くらいかけて何も考えずに帰ったろう。
そしてその不思議な野菜は飯塚君のお母さんにいわれた通りに母に渡されたはずで、記憶の次はテレビにはワニのワーリーかなんかが映ってただろう夕食時のこたつの上のもやし炒めである。
肉はおろか、ほかの野菜も入っていない。じゃがいもを煮るなら、ただじゃがいもだけ醤油と砂糖で煮る、というのが私の家や、後にきいてみても当時の農村の多くのレシピだった。
まず目を引いたのは、炒めた油の輝きだった。醤油色ににごって波紋を広げる油の上に、細いものが熱く湯気を上げている。
当時の私は、なんというかまだ食べ物に開眼していなかったように思う。野球に興味を持ち始めた頃で、タイトルも忘れたある野球マンガで目にした「三度の飯より野球が好き」というセリフに、三度の飯ってそんなに大事なのか、と衝撃を受けたことはそのマンガの絵とともによくおぼえている。考えられる理由は単純。たいしたもの食ってなかったからだ。
そんな小学二年だから、初めて食べたもやしがおいしかったなどと書いたらうそになる。ただ、油と砂糖と野菜特有の甘さと、「しゃきしゃき」なんていわない、「じゃりじゃり」とした歯触りを感じただけだった。何しろ食物開眼前なのだから、「おいしい」という言葉すら自分のものにはしてなかったろう。
その、どうでもいい最初のもやしが1971年。もちろん「ブラックマッペ」なんて知らない。
当然だけど、その後も私にとってもやしが特別な食べ物だったことはない。学生になって一人暮らしをした頃に一袋約三〇円という値段を知り、ずいぶん安いんだなと思ったくらいだ。
小学校高学年くらいには学校では先生からも「もやしや」と呼ばれることもあった飯塚君も、学区内では家が遠いこともあって仲が悪いことはなかったがそれほど遊んではいない。別の高校に行って以降も、たまに麻雀をしたり、『ブレードランナー』をみに行ったり、スキーに行ったりという同級生の一人だった。
ここから二十年くらい時間をはしょるが、その後も私にとってもやしは関心の外だった。
・・・・・後編に続きます
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・・・子供のころは友達が遊びに来ればもやし工場探検をやったものです。当時は空色だった樹脂製の仕込み樽を倒したエピソード、「シャッ」という音から、まだ仕込む前の乾燥状態のブラックマッペであったと思います。ああ、そんなこともあったかなぁ、という印象です。71年というと飯塚商店が創業して10年ほど。まだ「深谷産のもやし」が行き渡っていなかったでしょう。当時はバラックのような栽培所、たいした設備もなくほとんどが手作業。でも今から思うと『あの頃のもやし造りはもやしにとって理想だった』と思います。
もやし屋に生まれた私は小学生の頃から何かと朝早く起こされ、仕事を手伝わされ、それは中学校にあがっても同様で、朝飯抜きは当たり前、学校も“親が勝手に電話して”休ませてしまう始末。大義(?)のためなら、学校も二の次。そんな親でした(笑)。おかげで中二の欠席日数は23日、その大半が仕事がらみでありました。
小林真のエピソードにある母がもやしを渡した話。そんなことをしていたのかと思いました。それは父も母も、自分の造るもやしを愛しているがゆえの行動かと思うと感慨深くなります。
