3月1日(火)、幕張メッセで開催されていた国際食品・飲料店、


FOODEX JAPAN 2011


に行ってきました。FOODEXはビジネスマッチングを主目的としていますが、どちらかというと大規模で華やかな食の祭典といった趣です。


 率直なところ私はもやし生産業者なので来場者として訪れても正直あまり直接関係するものはありません。一応食の提供者の一人として、「マクロな食の流れを掴んでおこうか」、くらいの気持ちで毎年足を運んでいました。


 ただ今回FOODEXに訪れて様々な国内外の食に触れても大きな感動がなくなってしまいました。もちろん出展者は工夫をされていると思います。お金をかけなければ出来ないような派手なブースに派手な演出・・・それなのにあまり刺激を感じず響かなくなってしまったのです。少し前だったら楽しくて何でも試食・試飲をしたものですが、今回はほとんど手をつけず。唯一『深谷カルソッツ』に使えそうなスペインブースのひとつにあった「市販用パンコントマテ」に興味をひかれたくらいです。


 今回のFOODEXに限ったことでなく、最近大掛かりなもの、派手なものに刺激を受けなくなったのはなぜだろう?とメッセを後にしてから帰りの電車内で考えていました。

 

 もしかしたら


『大きな箱』という物語に飽きてしまったのかもしれません


 こういうところに出てきている食べ物では、みなそれぞれに自信のあるものでしょうからどれも美味しいはずです。ただそれだけではダメで、その中でひときわ大勢の来場者に印象づけさせるものにしなければ出展した意味がありません。味はどれもどっこいどっこい。そこから差をつけさせるものはなにか。私は


その食に関わる人間が作る物語


じゃないかと思います。


 いくら立派な設備を整えても、美味しい食べ物を提供してもそれだけでは物語を伝えることは出来ませんあくまでも物語を発信するのは生身の人間でしかない・・・ということを自分もイベントに関わるようになって気づいてきたから、今回のように『派手で大きな箱』だけでは響かなくなってしまったのでしょう。そういえばアルゼンチンブースでは、二人のダンサーが急にブース内でタンゴを踊りだしてました。食といったい何の関係があるかと思いますが、「なんだ?なんだ?」と人の注目を惹いた事は確かです。これもやはり『箱に頼らない、人が創り出したよくわからない物語』なのかもしれません。


 言い方を変えれば、幕張メッセという箱では大きすぎて


『人が物語を伝えにくい』


、結果として現在の形に終結せざるをえないのかもしれません。

 

 ただ私も貴重な時間を使いますので、今後よほどの物語性が伝わってこないとこういった大きな箱に足を運ぶことを控えてしまいます。


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 幕張から都内に戻り、その日の夕食はもやしの原料輸入商社のK社長と、私の友人を誘って新宿区荒木町にある青森料理店、


りんごの花


でとることにしました。この店の女将とは昨年一度アメブロのオフ会でお会いして、それ以来『りんごの花』には一度訪れてみたいと思っていたので、このたびようやく実現したわけです。


 『りんごの花』はこじんまりとした店ですが、店内に立ち込める外国のようなのんびりとした空気が心地よく、料理のほうでは見たこともない酸味が強くて身まで真っ赤なりんごを使ったサワーや、品種ごとのりんごジュースの飲み比べを楽しんだり、ねぶた漬け、バラ焼き、八戸せんべい汁、といった青森では普通でも、私にとっては新しい魅力溢れる味の数々に堪能し、また〆のにんにくチャーハンで発揮した青森県産にんにくの底力に驚かされたりで、とても刺激に満ちた充実した時間が過ごせました。


 さらに良かったのは料理を運びながら添えられる女将、大将からの食を通した青森話。青森と青森の食について多々学ぶことになり、私は食事中何度も、


『これはFOODEXよりずっと勉強になりますね』


とK社長に話しかけてしまいました。


 『りんごの花』には青森という自分にとっての“異国”の日常が店内に漂い、それが心地よさに繋がっていると感じました。このお店には


人と青森の食が創り出す“物語”


があります。店で過ごした3時間(それ以上)は、私たちは間違いなくその物語の一員でありましたし、物語に加わることの喜びがそこにあったのだと思います。

 非日常は楽しいけれどやはりいつも非日常を追いかけるよりも、


日常が刺激的で充実感溢れたものでありたい


です。刺激的な日常を探すよりも、


自分たちが楽しい日常、つまり楽しい物語を創り上げればいい


のかもしれません。そして人は楽しい物語を求めて、その人や店に集まってくるのだと思います。


FOODEXで感じた虚しさ、りんごの花で感じた充実感は


『人が物語を作った空間かどうか』


の違いが生んだものであったと思うのです。


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