外食好きの私が今一番通う店、それは前にこちら で書きましたが、地元深谷のやや駅から離れたところにある居酒屋「R」です。きちんとしているけどどこか肩の力が抜けたような普通の料理と、普通の酒を安い値段で提供するこの店は大きな宣伝をすることもなく、それでも少しずつ少しずつリピーターとなるお客さんが増えてきてます。そしていたって普通のこの店の最大の特徴は、
「居心地の良さ」
にあります。私はこの居心地の良さが大好きで、何度も通ってしまうのですが、ついついその謎が知りたくて、仕事をしている店主にカウンター越しから質問してしまいます。そして若いけど穏やかな店主が話す言葉は、しばしば私の目を開かせてくれるのです。
「マスター。この店のこだわりってなんだい?」
先日も気持ちよく酔った勢いで聞いてしまいました。
忙しそうに焼き鳥をひっくり返しながら、店主は「うーん・・」とすこし考えて答えます。
「そう・・『こだわらないことに』こだわっているかなぁ(笑)」
と、笑いながら言って、小鉢に温めたもつ煮を盛り付け、ネギを1本取り出して、後のまな板の上でトントンと刻み、もつ煮にパラパラと振りかけます。その行為、十分こだわりの姿と思いますが、彼にとってはこだわりでもなんでもなく、普通のことなのでしょう。
『こだわらないことにこだわる』
・・・・・またしても素敵な言葉を頂きました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
深谷のもやし屋、飯塚商店が創業以来48年間ずっと作り続けてきたもやしの姿。
細くて、根っ子がピンと長くて、豆がついたままのもやし・・・・。緑豆太もやし全盛の今となっては、ほとんど見ることのない姿のもやし。でも、父も私も「もやしはこれでいいんだ」と当たり前のように作ってきました。時代が変わっても。お客様(取引先)の嗜好が太もやしに移っても・・・です。
今や、その希少性ともやしが本来持つ味の強さゆえに「こだわりのもやしを作っている・・・」との評価を、ときどき頂いてますが、ただ・・・・そういってくださるみなさまには大変感謝していますが、正直言うと「こだわりの・・・」と聞くと違和感も覚えてしまうのです。なぜなら・・・
『父も、私も実際はまったくこだわって作っている感覚がなかった』
からなのです。もやしが普通に育てばこういう形になります。太くするための成長抑制ホルモンであるエチレンも少し空気に混ぜてますが、実はそれすらも面倒くさい処理だと思っています。
温度(室温、発芽熱)と水やりだけを気をつけて、あとは自然に任せればいいや
と。一日2回。ムロ(栽培室)に入って少しもやしの顔を見て・・・・何か異常があるなら対応する。何もなければ何もしない。もやしの栽培に関してはそれだけです。そしてその2回ムロに入るときも、シャッターを全開にしますから外気が流入して、ムロの空気がすっかり入れ替わってしまいます。エチレン濃度などあったもんじゃありません(笑)。
しかしそれでもこの10年間、ブラックマッペも緑豆もほとんど腐敗する箇所もなく生産してきました。もやしの好きにさせてきたからかもしれません。かつてもやしをダメにした時は、散水機が故障して水遣りができなくなったときだけです。
私から見れば、緑豆太もやしの方が遥かにこだわっています。普通に育てていては絶対にならない形のもやし。あの育成法を見つけるまでどれだけ苦労したでしょうか。ムロに仕切りをして、その日ごとに品温とエチレン濃度を管理させ、なるべく成長を抑えつつ10日間近くかけてじわじわと育てていく・・・・・私が知っているのはこのくらいですが、実はまだまだ秘密があるかもしれません。ともかくすごいこだわりの栽培です。さらに根取りのための機械を導入となると設備投資も大変な額になるでしょう。
いわゆる「野菜」とは人の都合で改良され続けてきた食べられる植物のことです。緑豆太もやしはいわゆる「野菜」の正当な流れの産物かもしれません。
「盆栽」と「自然のままに育つ植物」、どちらが美しいと思うでしょうか。「ブロイラーの鶏」と「自然の中で育った鶏」はどちらを食べることが“良い”と信じますか?「ヒトに過干渉された動植物」と「自然のまま生きる動植物」彼等に意思があるならば、どちらが幸せでしょうか?
「こだわるのが正しい」ときもあれば「こだわらないほうが正しい」こともあるのだと思います。浅はかなヒトがヘンにこだわった事で、生態系を乱し、環境を破壊し、ヒトにとって新たな災厄を生んでしまうこともあったでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
『こだわらないことにこだわる』
と言い切る店長、無理をしない、自分の身の丈の料理とサービスで、その店は確実に人々にとっての「幸せな食空間」を創り上げています。「食」、「サービス」、そして人を喜ばせる「幸せ」とはこんなところにあるのではないか・・・・と思うのです。

