飯塚商店ともやしの「一人称」による五十年の歩み
-最終章-
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平成十四(二〇〇二)年~十七(二〇〇五)年
雅俊、昔ながらのもやしであるブラックマッペもやしの復権に全力を尽くすが、どのお店からも「日持ちが悪い」、「根が絡んで使いにくい」「殻が黒いので異物みたいだ」と散々な評価を受ける。つい二十年前までは普通だったもやしがどうしてここまで? と真剣に悩む。
平成十七年(二〇〇〇五)年
他県のブラックマッペもやしを知りたいと思った雅俊。ブラックマッペが今でも主流といわれている鹿児島県のもやし屋を訪れる 。そこでは栽培室の温度調整も、エチレンガスも使わぬ、真の意味での“ありのままのブラックマッペもやし”があった。そのもやし屋としての姿勢、もやしの鮮烈な味に感動した雅俊、「もやしとはこれでいいのだ」と勇気付けられ、自らの方向性が示される。
・・・しかし雅俊が感動したその小さなもやし屋、現在は廃業しているという。
平成十八(二〇〇六)年
雅俊、もやしの大きな流れに逆らいつつも「これはウチでは作れない」という父の意思を受け継ぎ、昔のもやしを主張してきたが現実に打ち砕かれ続ける。しばし無力感に苛まれていたが、ある日、偶然親戚である市内の文具店「みどりや」に置いてあるイラストを見て何かが浮かぶ。そのイラストを描いた人こそ、後に絵本の作画を担当することなであった。その何か温かい、ほのぼのとした絵柄に惹き付けられ、さっそくことな氏と面会。新たな飯塚商店のもやしのキャラクター「黒豆も~やん」「緑豆もんちゃん」が生まれる。
その後、ことな氏と組んで、店頭用チラシやポスターの制作をするが、やはり店側からは「おたくのもやしの主張は時代にそぐわない」と言われてしまう。
平成二十(二〇〇八)年
消費者の生の声が聞きたいと思った雅俊が、納め先の産直スーパーの新規開店の時に自らもやしを持ち込んで店頭に立つようになる。
平成二十一(二〇〇九)年
食に対する怒りを書き綴ったブログが業界新聞社の社長に注目されたことがきっかけで、その方の知り合いの野菜ソムリエたちと交流する機会を持つ。
三月
六本木の老舗中華料理店『K』において、飯塚商店のブラック
マッペもやし、緑豆もやしを調理してもらい野菜ソムリエたちともやしの食べ比べ会を開催。その会に同席した野菜ソムリエさん全てが、飯塚商店のもやしの力に驚く。雅俊、このとき父が最後まで貫いたもの、それを受け継ぎ自分が主張し続けてきたもやしのあり方は間違っていないと確信する。
同時に野菜を伝えることを使命とする野菜ソムリエたちとの交流を通して、作り手も食べる人に自分の作ったものをできるだけ伝えることも仕事、と思うようになる。
四月
飯塚商店のもやしを理解してもらうには、もやしそのものを多くの人に知ってもらわねばならない。その方法は、と思案し、まずホームページを開設 。そこに今まで自分がもやしから学んだこと、もやしへの思いを全て書き込む。
五月
まだ何か伝える方法はないだろうか、と考えた時、ふとことなが描いた二人のキャラクターのことが浮かぶ。
「そうだ。二人を主人公に絵本をつくろう。絵本でもやしの成長や実情をわかりやすく描いてみよう」
と思い立つ。そしてすぐにことなに連絡を入れ、翌日には打合せをする。
六月
もやしの絵本「も~やんともんちゃんのキラキラ成長記」 が完成、ホームページで公開される。
七月
野菜ソムリエ認定機関の「日本ベジタブル&フルーツマイスター協会」のコラム「野菜人・果物人」 において、もやし生産者として初めて紹介される。
八月
もやしの絵本の第二部「も~やんともんちゃんの冒険」 が完成、ホームページ公開される。
九月
ことな氏と共に、埼玉新聞、読売新聞で「もやしの絵本」が紹介 される。これにより昭和の形を残したままの旧きもやし屋飯塚商店と、飯塚商店のもやしが大きく注目されることになる。地元高校生 、消費者団体 の取材もうける。
十月
熊谷市の消費者団体、「くまがやくらしの会」の料理研修会に使う食材に飯塚商店のもやしが指定される。そして同団体の要請を受け、雅俊は会場に出向いてもやしの説明 をする。
ことな氏、そして志に共鳴した同郷の友とともに「もやしの絵本の原画展」を、ふかや映画祭会場である旧七ッ梅酒造跡において開催する。そこは絵本の展示、販売の他、多くの方にありのままのもやしを広く深く理解してもらう試みであった。そして雅俊は自らの経験から、それでしかもやし業界が生き残る道はないとの確信に至っている。
そして現在・・・
二代目雅俊、父が倒れてからは逆風の中をはいつくばって、こらえるような八年間であった。だが、もやしの絵本の成功をきっかけに、飯塚家が信じたもやしそのものの力、そして飯塚商店のもやしを支持する方々の思いをうけて、その先の光を求めてこれからも進んでいくことを誓う。
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併記:「もやしと野菜、生産と流通の五十年」 小林真
平成十六(二〇〇四)年
小売大手ダイエーに産業再生法適用。流通界に衝撃が走る
平成十八(二〇〇六)年
飯塚家が長く愛してきた、五目焼きそばがおいしい市内の小さな中華料理店「フタバ食堂」が歴史の幕を閉じる。深谷くらいの規模の地方都市では、フタバ食堂のような個人経営店は次々に消えている。これは戦後文化におけるの最良の部分の損失の一つだろう。
平成十九(二〇〇七)年
フジテレビ系『あるある大辞典』納豆騒動。行き過ぎた食の情報化に警鐘が鳴らされる。
平成二十(二〇〇八)年
中国製冷凍餃子中毒事件を発端とする中国バッシング。「遠い食」の安全性に疑問の目が向けられる。
平成二十一(二〇〇九)年
米国サブプライム問題に端を発する世界同時不況で、「安価で栄養のある」もやしに注目が集まる。しかし、現在の主流は味がなく歯ごたえ重視の緑豆太もやし。ブラックマッペ、細もやしを主力と推す飯塚商店にとって、このブームの行き着く先はどこか。
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あとがき:現在、私の求めるものとは逆に、各もやし生産者は自らの生き残りをかけて一層厳しい状況を作り出しています。もやし全体の可能性を広げることよりも、低価格を拠りどころにしてシェアの奪い合いに終始しているのが現状です。
今にして思えば、飯塚家にとって、“もやしが美味しい”と言ってもらうことが一番の幸せでありました。
『安いではなくて、“美味しい”』
です。残念ながらその幸せを求めるには非常に厳しい状況は続いてますが、父と私が選んだその方向は間違えていないと思いますし、後悔はしていません。それがもやし屋として、食を供するものとしての使命なのですから。