飯塚商店ともやしの「一人称」による五十年の歩み
-第三章-
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昭和五十九(一九八四)年
飯塚商店、新工場を稼動させる。前年、福島県のもやし会社「成田食品」が画期的な緑豆太もやし、「ベストもやし」を発売。ここがもやし業界の転換期であった。
平成元(一九八九)~六(一九九四)年
雅俊、父英夫の時から親交のあったオーストラリアはブリスベーンのもやし会社「リビングフーズ」をしばしば訪れる。現地のもやし事情を肌で知り、そして内地の原料産地を巡る。クィーンズランド大学の農学博士であったブルース・イムリー氏を訪ね、氏からは自然なもやしの形状、豪国の原料(緑豆が主)について学ぶ。
またブラックマッペの主輸出国だったタイへも年に数回、足を運び、産地を回り、豆を選んで買い付ける。
当時、そのタイでの活動を友人に話すと、
「(もやしの)種を買いに行った? お前、種をまきに行ったんじゃないのか?」
とよく失礼なことを言われた。
平成五(一九九三)年
世間ではいよいよ緑豆太もやしが市場に広がり始める。飯塚商店は一方で昔ながらの作りを続けていた。一度他社の緑豆太もやしを食べた従業員一同、その味に不満を持った。英夫曰く、
「これはウチじゃ作れない」
そのため、相変わらず細いブラックマッペもやしを作り続ける。
平成七(一九九五)年
もやしの見栄え重視傾向が高まる中、遂に大口取引先からの要請を受けて、飯塚商店のブラックマッペの栽培を停止。原料を緑豆に切り替える。
それでもエチレンを多量に散布し、もやしを太くすることに抵抗があった英夫は、以前と変わらぬ栽培法で太くない緑豆もやしを育てる。
平成十一(一九九九)年
大手メーカーの作る店もちの良い(日持ちが良い)緑豆太もやしが全盛となり、どの店もそのもやしを主として売るようになる。そのあおりで地元密着型の飯塚商店の古いタイプのもやしは徐々に廃れていき、遂に緑豆に切り替えさせた大口取引先であったスーパーから取引の終了を言い渡される。それは折りしもスーパーの増加に対応するため、栽培施設を増築した矢先であった。そのときのバイヤーが告げた理由は「大手に比べ工場が古いから」であった。
平成十一(一九九九)年
もう一つの取引先スーパーのバイヤーからも、飯塚商店の納める太くない緑豆もやしではもうジリ貧になると言われ、英夫が「ならばウチはもともとブラック(ブラックマッペもやし)が得意なんだ。ブラックを置かせてもらえないか」と必死に交渉し、当時市場ではすでにほとんど見ることがなくなってしまったブラックマッペもやしを復活させる。しかしその取引量は全盛期の三分の一となっていた。
平成十二(二〇〇〇)年
経営が悪化し、心労が祟った父英夫、脳梗塞で倒れる。
平成十三(二〇〇一)年
父英夫、再び脳梗塞で倒れ長期入院。事実上の引退となる。そして長男雅俊がその後を継ぐ形で、代表取締役に就任する。
父英夫はこのような形で長男に継がせたことを悔やみ、病院のベッドで「すまない。すまない」と泣いていたという(母衣子談)。
・・・・・・・・・・・喪失と希望の最終章に続く。
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併記:「もやしと野菜、生産と流通の五十年」 小林真
昭和五十八(一九八三)年
もやしの歴史を変えたといわれる太もやし「ベストもやし」を成田食品が発売。もやし界における「緑豆太もやし」絶対王政時代の始まり。
なお同年、マンガ『美味しんぼ』連載開始。いわゆるグルメブームが始まる。
昭和五十九(一九八四)年
セブンイレブンが本格的にPOSシステムを導入し流通革命が起きる。同時に交通網の整備による運輸インフラ発達とともに、かつては当たり前だった「地産地消」の原則が崩れる。
平成三(一九九一)年
サラダコスモが子大豆もやしを発売。大豆もやしはかつてよく作られていたが、コスト高から生産量が減っていた。野菜界全体でもブロッコリーなど新顔が出現したように、もやしの多様化ともいえる。
平成八(一九九五)年
食糧管理法廃止。
平成九(一九九六)年
橋本内閣による「金融ビッグバン」始まり、経済のグローバル化が進む。
平成十二(二〇〇〇)年頃
周辺の野菜卸売市場が次々に倒産し、地場スーパーも撤退、縮小に追込まれていく。代わって増加したのは、大資本を武器とするグローバル小売業。
平成十二(二〇〇〇)年
雪印集団食中毒事件。食の安全性の問題がクローズアップされる。
平成十三(二〇〇一)年
ねぎなど三品目にセーフガード措置。食のグローバル化が問題に。
・・・・・・・最終章に続く。
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あとがき:もやしの価値観をひっくり返したともいえる画期的な「緑豆太もやし」は流通業界の伸びと連動してそのシェアを広げて行きました。もやしに高付加価値を与えた、そのことが大いに受け入れられた証明と言えるでしょう。ただしです。それ以降、もやしの多様性を重んじた正しい意味での棲み分けが続くことなく、一つの価値観への加速化、つまりもやしのグローバル化も進んでしまったことが、私個人としては非常に悔やまれるのです。