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拝啓四十の君へ

3歳男児の親としても、フリーアナウンサーとしても「こんなん聞いてないし!」と、絶望しては望みを繋ぐ日々です。それでも40歳くらいには戦闘記として懐かしめたら!
子育ては十人十色すぎるので、どこかでどなたかに届く事があればとても嬉しいです。

 大切な友達が母になった。4つ年下ということを忘れる程、彼女はしっかりしている。しかし、そんな彼女に対して強めの先輩風を吹かせ、妊娠中にやっておいた方が良いとすすめ続けていたことがある。それは、「いまの日常生活」を堪能しておくこと。温かい食事を温かいうちに食べ、身繕いをし、湯船につかって、眠くなったら横になる。自分の都合で用を足せる安堵たるや。私は、縁遠くなってようやくその有難みを知った。出産前に映画館やコンサートに行っておきたいし、お洒落なレストランで食事もしておきたいのはわかる。しかし、とことん味わっておくべきは生理的欲求が満たされる喜びだと、身重な彼女に声を特大にして言った。

 何をしたでもなく「側にいる」だけで手いっぱいの日。ようやくありつける自分用のご飯を電子レンジで温めた途端に泣き出す昼下がり。寝かせるのに2時間、布団に置いたら5秒で起きる夜。泣き止まないままベランダに出て迎えた朝焼け。もどかしく、1分で1時間分の重圧を伴うような時を重ね、3年経って楽になったことも増えてきてはいる。それでもなお、冷めたおかずを時には立ったまま口に入れる日常に、こみ上げてくるものを抑えられないこともあるのだ。

 私の性格に依るところが大きいかもしれないが、子育てはこういった自分のタイミングで動けない欲求不満に「虚無感」が覆いかぶさると余計に苦しくなる。大切な子を育てているはずなのに達成感はなく、代わり映えしない一日を繰り返し、先が見えないことがそら恐ろしい。先の友人は私と似ていて、これまでは仕事に心血を注いできたタイプ。だとすれば、これからは「今日一日はなんだったんだろう。」と感じる日がある・・・ような気がする。もし、子どもとの毎日が虚しくなったら、今度は「Today」という詩をすすめてみようと思っている。にっちもさっちも行かなくなっている私を見かねて児童館の先生が教えてくれたもので、作者不明のままニュージーランドから広がったとのこと。


今日、
わたしはお皿を洗わなかった
ベッドはぐちゃぐちゃ
浸けといたおむつは
だんだんくさくなってきた
きのうこぼした食べかすが
床の上からわたしを見ている
窓ガラスはよごれすぎてアートみたい
雨が降るまでこのままだとおもう

人に見られたらなんていわれるか
ひどいねえとか、だらしないとか
今日一日、何をしてたの? とか

わたしは、この子が眠るまで、おっぱいをやっていた
わたしは、この子が泣きやむまで、ずっとだっこしていた
わたしは、この子とかくれんぼした
わたしは、この子のためにおもちゃを鳴らした、それはきゅうっと鳴った
わたしは、ぶらんこをゆすり、歌をうたった
わたしは、この子にしていいこととわるいことを、教えた

ほんとにいったい一日何をしていたのかな
たいしたことはしなかったね、たぶん、それはほんと
でもこう考えれば、いいんじゃない?

今日一日、わたしは
澄んだ目をした、髪のふわふわな、
この子のために
すごく大切なことを
していたんだって

そしてもし、そっちのほうがほんとなら、
わたしはちゃーんとやったわけだ

(伊藤比呂美 訳)

何かのご縁で読んでくださった方、毎日お疲れ様です。大晦日だろうと三が日だろうと子どもは手加減無しですね。大掃除なんていまは夢物語ですが、今日を責めたくなったら、私はこの詩を思い出しています。