背中は口ほどに物を言う | 拝啓四十の君へ

拝啓四十の君へ

3歳男児の親としても、フリーアナウンサーとしても「こんなん聞いてないし!」と、絶望しては望みを繋ぐ日々です。それでも40歳くらいには戦闘記として懐かしめたら!
子育ては十人十色すぎるので、どこかでどなたかに届く事があればとても嬉しいです。

 いよいよ、見えるはずのないものが見えるようになってしまった。夕方17時が近づくと、それは自転車に乗る女性の背中に浮かび上がる。「保育園(幼稚園)へ急いでいます。」と。

 私はいまアナウンスメントとは無関係の会社でも働いているので、勤務時間が過ぎると速やかに保育園へと向かう。その時間帯は「子供乗せ自転」をこぐ女性の大名行列さながらであり、各々の背中には一様にかの注意書が見える、ように思っている。一方的な仲間意識が強いと、こうなるようだ。

 「保育園に迎えに行ったときの子どもはいっそう可愛い。仕事の疲れが吹き飛びます。」といったことはよく見聞きするが、私は「できることならあと1時間、いや30分でいいから迎えに行きたくない」と思っている。そこから始まる寝かしつけまでの過程を思うと、疲れどころか思考回路がぶっ飛びそうになるからだ。

 一方、夫はよく息子のことを可愛いと言う。そう聞く度に私は「そりゃそうだろうよ」と思う。夫は帰宅が遅く、出張や付き合いのため、子どもとほぼ会わない日も少なくない。24時間ぶりに見る子どもの顔はきっとかわいい。起きているうちに帰宅したとしても、そのときの息子はお腹も遊びたい欲求もほぼ満たされているからか大変穏やかである。お風呂に入ってさっぱりしていたりもする。素直でツルツルの子どもと、今日あったことを話しながら過ごす就寝までのたかだか1~2時間は、さぞ癒されるだろうなと。

 息子を穏やかな状態に戻すまでの光景を夫は知らない。保育園帰りに公園や電車を見に行きたいと言われ、行ったら帰るための説得にどれだけ時間が必要かを。夕飯作りの間に何度「ママ、こっち来て!」「これ見て!」「なんか食べる!」「ママなにしてんの?」「ママママママママー!」と中断を余儀なくされるかを。それだけ苦心して作った料理に一切口をつけてもらえず、お菓子が食べたいと泣かれることを。お風呂が嫌で逃げ回り、パジャマを着せるまでに私がどれだけの苛立ちとため息を呑み込んでいるのかを知らないと、さぞ可愛いんだろうなと思っている。

 そんなとき、あの背中を思い出すのだ。「保育園へ急いでいます、本当のところはまだ行きたくないけれど、子どもも先生方も1日頑張って待っていてくれるので早く行かない訳にはいきませんし、正直お茶の一杯くらい飲んで自分を労って仕事から気持ちを切り替えたいところですが、子どもの理想の就寝時間までのスケジュールにそんな余裕はないので、夕飯も決まらないまま無心で自転車を漕いでいます。」

背負っているのは多かれ少なかれ大儀な育児。仲間の背中には見えるはずのない思いが滲んでいる、ように思って、明日も前に進むのだ。