祖父と私の橋渡し | 拝啓四十の君へ

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3歳男児の親としても、フリーアナウンサーとしても「こんなん聞いてないし!」と、絶望しては望みを繋ぐ日々です。それでも40歳くらいには戦闘記として懐かしめたら!
子育ては十人十色すぎるので、どこかでどなたかに届く事があればとても嬉しいです。

 明石海峡大橋を見ると、祖父の顔が浮かんでくる。徳島県で育ち大阪の大学へ進学した私は、帰省のたびに本州と淡路島をつなぐ世界最大級の吊り橋を高速バスで往復した。淡路島を過ぎれば実家はすぐだ。降車するバス停には、共働きの両親に代わりいつも祖父が車で迎えに来てくれていた。祖父は寡黙な人だ。数えきれないほど送迎してもらったのに、車内で会話らしい会話をした記憶がない。

 就職のために、徳島から札幌へ向かう日もそれは変わらなかった。できる限り費用を抑えるため、私は高速バスで神戸空港まで行き、そこからLCCで新千歳空港へと向かうことにしていた。いつものようにバス乗り場まで送ってくれた祖父だが、その日は待合所まで付き添ってくれるという。バスの到着予定までは時間があるので、何度か祖父には先に帰ってもらおうとしたのだが、「もう大丈夫、有り難う。」と伝えても「うん。」と言うだけで、椅子から動こうとしない。祖父と二人の沈黙には慣れているのに、その時だけはもどかしかった。黙って隣に座っていると、これまでの日々が次から次へと脳内で再生され、センチメンタル不可避になりそうだったからだ。飛び出してきそうな感傷に気づかないふりをして、目の前にあったUSJ行きの時刻表を始発から最終便まで繰り返し読み続けたことをよく覚えている。

 バスが到着すると、一緒に乗り場まで歩いた。相変わらず何も喋らず、私がバスに乗り込んだ後も祖父は同じ場所に静かに立っていた。私の席は乗り場と反対側のため様子はよく分からなかったが、バスが発車するタイミングで顔が見えた。泣くでも笑うでもなく、祖父は顔の近くでそっと右手を上げていた。バスが動き出していて良かった。これで憚ることなくハンカチを出せる。あの日の明石海峡大橋は春霞に輪を掛けてぼやけていたように思う。

 そんな祖父が、息子(ひ孫)の前では饒舌だった。このGWは、関西に居ながらもなかなか越えられなかった明石海峡を渡り、帰省することができた。ひょいと片手で持てそうだった赤子が、走って跳んで「ひぃじぃじ!」と叫んでいる様は愉快で仕方なかったようだ。2泊3日のうちに、「よう来たなぁ。大きなったなぁ。」と寸分違わぬテンションで7回も言えるのが89歳なのだろう。

 関西に戻る日、ここ数年で散歩にすらほとんど出なくなった祖父だが、帰り際に「じいちゃん、また来るね」と声を掛けると玄関に出てきてくれた。後部座席のチャイルドシートを覗くようにして、何度も右手を上げている。祖父は寡黙で優しい人だ。車が動き出した時、声がした。「ばいばい、また来なよ!」久しぶりに聞く、祖父の大声だった。