神様好きの宗教嫌い | 伊藤和磨オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 天気が良い日は、スタジオのベランダから富士山が見える。日本には、神が宿っているかのように思える景色が沢山あるが、その中でも富士は別格。日本を象徴するような存在である。


 富士山が見える朝は、合掌して昨日を生かしてもらった事に対して感謝し、「今日も一日お守りください」とお願いしている。



 夕暮れ時の富士山も美しい。


富士山が見える夕方は、クライアントに見て!見て!と富士山を見せる。

すると、みんな決まって「へえ!こんなところから富士山が見えるの!いやー、やっぱり富士山って凄いわね。普通の山じゃない」と溜め息を漏らす。なぜか、彼らの背筋も自然と伸びている。


 海外に滞在している時に、日本人が無宗教であることについて質問されることがよくある。「神を信じずに、何を心の拠り所にしているの?」

「日本人は神を信じていないのではないよ。
日本には神道がある。やおよろずの神といって、大木や大岩、海、山など至る所に神が宿っているのだと、多くの日本人は信じている。神々に対して、畏敬と畏怖の念を持って崇め、思い上がった気持ちでいると、いつか祟られてしまうと恐れている。だから、厳しい戒律がなくても、自ら行いを正して、非道徳的な行為する人が極めて少ない。類稀な日本人の謙虚さと道徳心は、そういうところから生まれているのかも知れないな」

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と、こんなふうに答えている。

それから自分の胸を指し、「神との繋がりは、ここと空でしょ?」と天を指す。

その間に、教会やモスク、お寺などの建造物は要らないし、人的媒介も必要ない。教祖はもっといらない。


 なんの媒介がなくても、something greatと対話はできると信じている。月に願いを込めたり、星を見つめてもの想いに耽ることも、目に見えない何かとの対話だろう。

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世界を旅していて思うことがある。


どうして人は、立派な寺院や教会をこぞって建てようとするのか。


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そして、神や仏に仕える者でありながら、勝手に自分たちの中で位を設定し、権威づけするのだろうか。


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 イエス・キリストは、「選挙でパパを決めなさい」などと言っていないはずだ。余分な下着を持つことを許さなかったのに、いつの間にか司教たちは豪華な服を身に纏っている。どの神も、極力質素でいなさいと諭しているのに。


 他の宗教も同じで、後に続く者たちが、各々の解釈で手前勝手な戒律をばんばんつくり出した。ムハンマドが、イスラム原理主義を組織して、無差別テロを推奨するわけもない。仏陀が袈裟の色で僧侶の格付けを指導したとも思えない。


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 みんな後付けで、人間が作り出したもの。


 この頃、宗教的な生き方・暮らし方って、どんなもんだろうと考える。起こることの全てを、淡々と受け入れること。そして、感謝の気持ちで全うすることが、宗教的な生き方ではないかと愚考する。

仕事は人が見ていないところでも、手を抜かない。こんな事でも十分。

少なくとも、ただ自分の為に祈ることが宗教的な暮らし方だとは思えない。
 毎週教会に行き、熱心に祈りを捧げても、隣人を信用できずに、みんなが銃を手放さない国もある。そんなの馬鹿げているし、全然隣人を愛してないじゃん?と。

 昨年、イスラエルのエルサレムを訪れたときに、「ユダヤ教の人々は、生涯働かずに子供を1人つくるごとに、国から補助金が出て、それで暮らしている。女子は13歳くらいで結婚させられて、とにかく子供を沢山産まなければいけない。外の世界を全く知らないんだ」と、数人の人達が教えてくれた。それが、本当ならば…ね。嘆きの壁の前に立ち、一日中祈ることしかしない彼らを見ていて、宗教の本質について色々考えさせられた。

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自分は、神さま好きの宗教嫌い。

信仰心はあるが、どの宗教にも属さない。


人類の歴史の中で、いつの時代も宗教は巨大なビジネスになってきたし、戦争の道具にもされている。

権力者としては、民を操るのに宗教の存在は大変都合がよいものだった。

 一方で、宗教があってこそ、音楽や芸術、建築など、ありとあらゆる芸術と文化が発展した。言い方は悪いが、無教育で野蛮だった地域の人々が、宗教の力によって改心し、人間らしい暮らしをするようになったところも沢山ある。

 差し引きすれば、プラスの面の方が多いのだろう。


 日本の神々は、大陸から伝わってきた神様たちと違って、おしゃべりではないから好きだ。

向こうの神様は、あれするな、これするなとお喋りでルールが多い。


 カタチを持たぬやおよろずの神は何も言わないが、日本人は肌で「それ」を感じ取ることができる。


富士山をみたときに背筋が伸びて、緊張の糸が張る感覚こそ、日本人の特異的な信仰心の表れではないかと思う。
 あくまでも、これは自分の独断と超偏見であって、他の神様や宗教が上とか下とか、正しいとか間違っていると言っているわけではない。


 今日も沢山の外国人が日本にやってくる。


日本人のメンタリティについて訊ねられたら、「日本人のことを知りたければ、まず富士山を見てね」と答えようかと思う。