学歴とか資格とかはなぜ意味がないか。 | メモらんだむ

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もはや学歴社会ではないといわれて久しいがどういう意味なのだろうかとふと考えた。

頭のいい人は必要ないという意味ではない。
物事を考える力がなければなにか新しいものも生み出せない。
体力の時代が来たという意味でもない。
体力もそれはそれで必要だがそれだけが圧倒的でも何の意味もない。

考える力はなんとなく必要だと言うことがわかる。
パターン教育の副作用を書いたがそれも全く考えられない考える基礎力のない
人たちよりは考えると言うことが何かが分かっている分ましだ。

もはや学歴社会ではないというのは、以前からの対比軸で
学歴だけで将来が決まっていたが、学歴だけではだめになったという意味なのである。

つまり、学歴は考える基礎力を立証する意味でもある程度必要で
考える力がない、体力だけの時代が来たということではない。

一方で、学歴と言うのは外部からの評価の目線を必要とする段階の人までが必要で、
世の中を動かす人で自分が世の役に立ってやろうと言う心理の人には不必要なものになる。

人からいかに高く評価されるかを気にしている人に典型的なものは学歴だけではない。

資格取得もその性質が強い。
何気なく資格がある人はほとんどいない。
なぜなら、資格は取得を積極的にしていくものだからだ。

理容師だとか、医者だとか弁護士だとかの資格はそれがないと
髪が切れないとか、本人に成り代わって法廷に立つことができない
薬剤を処方することができないなどの資格なので必須用件だ。

武器を身につけようとして取得する資格、商〇検定だとか、
MBAだとかは全く意味がないものになる。
なぜなら発揮される実力と資格は何の比例関係もないし、
ましてやその資格がないとつけないという職種が存在しない。

まさに他人からの評価目線を気にした心根に基づき取得したこと以外に
何の根拠もないと推理できるのだ。

経験や資格に依存する心境は強くない。
考え方も縦横無尽、変幻自在はなっていかない。

学校の選択だって同じことだ。
いい学校に入ったら、コネができるよとか、いい就職先にありつけるよ、
なんて考えること事態が自分の能力発揮ができない依存マインドになっていると言うわけだ。

でも、普通にこだわりもなく一生懸命勉強することで
いい学校に入れるのなら、そうしたほうがいい。
脳を鍛える環境はそちらのほうが整っている可能性はある。

環境は選んでいける。
周りの友人も選んでいける。
学校はその一つである。