ようやく病院へ行けた。
昨日更新したブログにも書いた通り、多種多様な困難があり、なかなか病院へ行けなかったのである。だが、困難は人を強くするもので、今回ばかりは様々なチェックを怠らず見事なまでにスムーズに病院へたどり着くことができた。
だが、喜ぶのはまだ早い。時として人は何かに注意を向けることで、何かから注意をそらしてしまうことがあるのだ。
私が行こうとしていたのは婦人科のある病院であった。ずっと病院と書いているが、もっと正確に言えばクリニックである。病院とクリニックの違いは大きくあるのだろうが今更クリニックと書くのも面倒なので病院とさせていただく。
婦人科病院へ行きたいというのは別に大病をしているとか、妊娠したとかそういったものではなくとても些細な、少し気になる程度のことがあり、そういったことは早めに解決しておいた方がよいだろうという冷静かつ丁寧な思いからのことであるので心配は無用だ。
病院はまたしても駅の反対側であった。大通りに面した雑居ビルの2階。ビルの窓ガラスには病院の名前がこれでもかというくらい大きく書いてある。外観からの印象は良くも悪くもない、といったところだ。病院名をこれだけ大きく書くということはやましいことがないからに違いない。
そして次に気になるのは院内の雰囲気であろうが、それに関しても問題ない。しっかりと調査済みである。えらいだろう。褒めろ。
下調べをしていた時に出てきた院内の写真は、とても綺麗で清潔感があり、すこしこじんまりとしているもののそれはそれは居心地の良さそうな空間であった。だが、待ってほしい。ここで安心してはいけない。大概この手の写真というのは偽っているものである。旅館の写真や、ツイッターのアイコン、自我撮りなどがその代表例である。この代表選手たちは裏切るということに重きを置いているとしか思えないほどかなりの打率で裏切ってくる。しかも文句を言わせる空気など微塵も感じさせない。言わせねえよ、という無言の圧力をかけてくるのである。
脳内のイメージと院内のイメージのかけ離れを防ぐために、期待値は低めの40点くらいにしておいた。雑居ビルの前に立ち、いざ出陣である。時刻は10時を少し過ぎたところ。開院して1時間しか経っていない。
雑居ビルの階段は想像よりも薄暗かった。これは期待値をさらに下げておく必要がある。35点くらいだろうか。順調に階段を登り、2階に着く。なんの迷いもなく自動ドアのボタンを押して病院へ入った。
中を覗けば数名の患者がいた。受付のカウンター内には50代前後のおばさまが二人。一人は何かの情報を黙々とパソコンに打ち込み続けていた。待合席には血圧測定器で血圧を測る高齢のおじいさまと大学生の男の子、そして母と娘の親子が一組いた。院内の雰囲気は写真よりはやや劣るが清潔感があってどちらかといえば好印象を抱くような感じであった。
だが、ここで違和感を抱いた方はいらしゃるだろうか。抱かなければそれでいいが、前述した通りここは婦人科である。なぜ高齢のおじいさまと大学生の男子がいるのだろうか。そんなことを考えながら突っ立っていると受付のおばさまに「なにごとでしょうか?」と言われた。パソコンに向かっているもう一人のおばさまはこちらに見向きもしない。
ここで、いきなりの「なにごとでしょうか?」である。わざわざ午前中のこの時間に病院へ来て「なにごとでしょうか?」とはそれこそなにごとであろうか。とはいえ病院に入って突っ立っている私も私なのである。「初診です、気になることがあって。」と端的に伝えるとおばさまは「心療内科ですか?」と聞いてきた。すべての謎が解ける時である。
ここは婦人科と心療内科が併合している病院であった。私はてっきり婦人科だけなのだと勘違いをしていたのだ。失礼失礼。診療時間と院内の雰囲気ばかり気にしていたため重要なところを見逃していた。
短めに「婦人科です」と伝え、問診票に必要なことを記載しおばさまに渡すと待合席にあるカラフルなソファに腰をかけた。カバンの中をゴソゴソと探り、暇つぶしに持ってきた本を開いたその時である。隣に座っていた大学生が突如立ち上がったかと思うと「ティッシュはありませんか!」と静かな院内に響き渡るほどの大きな声で言い放った。戦国時代だったら戦が始まるレベルの音量である。
私や、親子連れの驚きをよそに、受付のおばさまはとても冷静に「どうぞ」とティッシュの箱をその大学生に渡した。大学生はティッシュの箱から指の先だけで丁寧に一枚抜き取ると「虫がいます!」とまた大きめの声で言った。彼の視線の先には小さな黒い蜘蛛がピョンピョンと軽快に跳ね飛んでいた。
あまり長い時間人を見続けているのも失礼だろうと本に視線を落とした。しばらくして、受付のおばさまがカウンター越しに「やついさん、血圧測ってください」と言ってきたので血圧測定器に視線を移す。するとどうだろう。高齢のおじいさまがまだ血圧を測っていた。血圧測定器からは測定結果の紙がベロベロとなびいており、そこにはおじいさまの血圧が書いてある。それもそのはず私がこの病院に着いてからの約20分間、おじいさまは血圧を測り続けていたのだ。
受付のおばさまがおじいさまに向かって「彼女に血圧計らせてあげて」とカウンター越しに言う。このおばさまたちは椅子から腰が浮くと罰金でも生じるのだろうかというくらい立ち上がらないし、身を乗り出すということもしない。ただ声の発する向きを変えて伝えるだけなのだ。
おじいさまは私の顔を一瞥すると「今日はまだいい数字が出ないから」と言った。血圧ってそういうものなのだろうか。私にはわからなかったが、受付のおばさまが注意をしないかぎり私にはなんの権限もないので「じゃあ仕方がないですね」と言っておじいさまの気がすむまで待つことにした。
本を読みながら今の会話を何度も反芻したが、腑に落ちることはなかった。
このあと私は無事に診察を受けて「何もわからないから来週また来て」と医師に言われ、そのうえ会計は五千円ほどでなかなかいい値段だなと思いながら支払いを済ませ病院の外へ出るまでおじいさまは血圧を測り続けていたし、大学生はずっと蜘蛛を追いかけていた。親子連れは私が診察を終えたらもういなくなっていたので本当は存在しなかったのかもしれない。
ということは血圧を測り続けているおじいさまも存在しなかったし、蜘蛛を追いかける大学生はもちろんのこと椅子から腰を浮かせると懲罰を受けるシステムの受付のおばさまも存在せず、診断結果を言わないあの医師もあの病院自体も私の妄想上のものだったのかもしれない。
明日、私は別の婦人科へ行こうと思う。
次はきっとだいじょうぶだと信じて。
おわり
まつしまぼろし