私の今、一番欲しいもの

サテ、何でしょう??

犬、犬 ……

喉から手が出るほど欲しい!

歴代の犬達の名前は、全部覚えている。
ベンケイ、キッコ、プティ、モキ、大輔……

私の物心ついてからは、必ず生き物が、私のそばにいた。
今は何もいない。

母もいないし、とても寂しい。

最後の犬を飼った時の文章があるので、少し長くなるが引用させてもらう。


--引用ココカラ----

「高齢出産は疲れます。若い命を抱きしめて頑張っております。」

友人にファックス(この頃はこのツールが主流)したとたんに電話がなり、

「ど、どうしたの、トモ子さん、ついに出産したの?」

あわてものの彼女、最後まで読まなかったらしい。ちゃんと「私の娘はエアデール・テリア(犬)のアドロ」と書いておいたのに。

「娘を持つというのは、こんな心境なのかしら?」

目に入れても痛くないという実感を味わっている。とにかく愛らしい。寝そべっている姿も、ウンチをする恰好さえ……。

我が娘アドロは生後2ヶ月で静岡からやってきた。車に酔ったのかヨロヨロと這い出てきた黒い塊は、まるで泥つき里芋みたい。1年半も待ちわびたエアデール・テリアとはこれなのか。天使のような愛くるしい姿を思い描いていた私は、一瞬わが目を疑った。アドロは呆然としている私の膝にヨチヨチとよじ登り、ほっぺたをチロリと舐めた。とても人なつっこい。

「まあ器量は二の次、三の次、性格のよさが一番」

と母娘2人で慰めあった。

さて、アドロがわが家に来た時の体重は、3.8キロだったのに、10ヶ月の今は、約30キロ、その急成長は、毎日バリバリと音をたてて大きくなっていくみたい。

庭で飼っているので、夜「おやすみなさい」と言ってドアをしめ、翌朝「おはよう」とドアをあけると、もう大きくなっている。
毛並みもいつの間にか、頭部と四肢はきれいな茶色にかわり、胴体は黒でつやつやと光っていて、将来が楽しみなレディに変身しつつある。道行く人も足をとめて振りかえるほどの美女ぶり……。ホントウです。どんどん姿が変わってゆくので目が離せなくて、私の唯一の趣味であるスキューバ・ダイヴィングに行く暇もなくなってしまった。

雪の日、寒くて震えているのではと、庭に出ると「ワー雪だ、雪だ、見て見て」とばかりに、初めての体験に驚きはしゃぎまわり、全身で生きている喜びを表現している。その新鮮さに、若い命って、何てすばらしいんだろうと、もうだいぶ人間アンティックになり、古ぼけてきた母と私も、彼女のペースに巻きこまれて、少しずつ若さをとりもどしていくようだ。

いつ帰宅しても門をあけると、ピョンピョン飛び跳ねクルクルまわって歓迎の踊りを踊ってくれる。茶色の巻き毛におおわれた顔に、真っ黒なボタンのような目が2つ。「お散歩でしょ」と首をかしげて催促されると、もうイヤもオウもない。疲れも忘れ、いそいそと出かける毎日。

アドロのお目あては家から20分くらいのところにある公園「まあーかわいい」「ぬいぐるみみたいだわ。」と声をかけられると、喜んでピャーっとその人の許へ跳んでゆく。褒め言葉に弱いところなんか飼い主の私にそっくり。

体重は私より少ないが、力の強さは比べものにならない。アドロの引き綱を私の胴にひと巻きして、からだ全部で引っぱるようにしても、ズリズリ引きずられてしまう。犬同士なら尻尾を振って親愛の情を示すのだが、猫となると天敵らしくて、見つけたとたんに、息を荒げ、いきなり全速力で追っかけるので、私は恥も外聞もなく近くの電柱にしがみつく。「アラアラ、どちらがお散歩しているのかしら」と笑いながら通り過ぎる人もいる。

深夜、人けのなくなった公園の草原の一角に、犬たちの秘密の空間があるのだ。
ラブラドールやゴールデン・レトリーバ、ハスキー犬、柴犬、アフガン、ピレーネー犬など、ぞくぞくと集ってくる。仲良し同士、くんずほぐれず夢中で遊んだり、ボールを追って駆けまわる。寒さに震えながらわが子の活動を見守っている飼い主たちは、お互いを犬の名前で呼びあう。個人名や仕事は関係ない。私は「アドロのお母さん」と呼ばれている。

アドロが5ヶ月の時、公園デビューをしたのだが、あの時はボルゾイのお父さんがその場を見事に取り仕切っていた。

「新しい子はキキと遊ばせてね。同じ5ヶ月だから。メイのお母さん、ウンチしましたよ。片づけて」

片隅で犬にブラシをかけていた人は、抜け毛を袋に入れて持ち帰る。最近、ボルゾイのお父さんの姿を見かけなくなったが、公園のマナーはしっかりと踏襲されている。翌朝、その場所を通る人は、おそらく前夜、犬たちが演じた幻のような饗宴など、少しも気づかないことだろう。大型犬の飼い主たちの秘密の場所なのだ。

私が多忙を極めると、しわ寄せは愛犬に向かう。散歩どころではない。わが家は2階が居住のスペースで、階下はレッスン場になっている。夜、私が階段を降りてくる気配で、庭にいるアドロは飛んできて、玄関のドアのガラスの部分に、黒いボタンのような鼻を押しつけて「ねえ、遊んで、遊んで」と尻尾でドアを叩く。

「これからお稽古だから、あとでね」

アドロはちゃんと納得する。2時間、3時間はアッという間にたち、深夜になってしまう。そっとガラス越しにのぞくと、アドロはドアに寄りかかってぐっすりと眠っている。ドアをあけるとズリズリ押されながらも、もうボールをくわえている。そして「さあー投げてちょうだい!」なのだ。ボールが門や壁にあたってはねかえるのに飛びつくアドロ、真夜中のボール投げはなかなか終わらない。あきないのかなあと思いつつも、この楽しみを待っていてくれた心根を思うといとおしくなる。
30キロの大きな命の塊りを神様からお預りしている責任を感じる。

--引用ココマデ---


神様からお預りした大きな命も12才で消えてしまった。
その存在感が大きかっただけに喪失感もはかり知れない。

あまりに寂しくなると、真夜中に犬達の饗宴が開かれた場所に、母と行ってみた。
そこにはお店が出来ていた。

何もかも幻だったのか。

母が「犬はアドロを最後にしましょうね」とポツンと云った。

また悲しみに耐えるには、私達は年を重ねすぎたのでしょう。

ちなみにアドロとは"我れ愛す"というスペイン語だそうで、とても気に入っている。