国立病院機構東京医療センター人工関節センター長、藤田貴也(よしなり)先生。
ブルドッグ先生によると、藤田先生は年間200件、股関節の手術を手掛けている方で、素晴らしいスタッフも揃っているとのこと。

第二番目の先生からは「○○都知事を執刀した医者は他県にいるので、東京なら藤田先生を推薦します」と電話が入る。
第二番目とブルドッグ先生が、同じ意見だった。

ここで私が、病院を転々として得た豆知識をご披露すると、MRI、レントゲンなど、全てのデータは患者側が要求すれば得る権利がある、ということ。
医者は断れない。第二番目とブルドッグ先生は、すぐにデータをくださった。第一番目だけは、当院で手術しないのなら渡せません、と言われた。
これはルール違反。
第一番目以外のデータは、あらかじめ全て藤田先生に郵送済み。それがどれだけ役に立ったかはわからないが、少なくとも患者の熱意は伝わる。

1月6日、藤田先生とお会いする。
緊張で足がガクガクする。

「右側が相当酷いですね。手術をすると少し足が長くなります」と、先生。

「望むところです。私はチビなので、思いっきり長くしてください」と、私。

「いえいえ、そういうことではなく、足の長さが違うと、少し引きずることになります。左も悪くなっているので、2本同時にやりましょう。今はその術式が主流です」

右足は覚悟していたが、両足一緒とは……
怖くて胸が潰れそうになる。

「先生、私は母を亡くし、体重がかなり落ちてます。40kgが36kgになっています。手術に耐えられるでしょうか?」

「大丈夫ですよ、痩せている方がデブよりやりやすい」

6月10日にコンサートをやることをお話しすると、「充分でしょう」。

手術日を探してくださるが、スケジュールが満杯の様子。

「3月2日が直近です」

あと2ヶ月……やると決めたら、なるべく早く。

「もっと早いのありませんか?」

「ウーン、ひとつだけ空いていますが、術後の翌日、私がいませんよ。いた方が良いでしょ」

「3月2日でよろしくお願いします」

「手術の前、これを観ておいてください」

紙を渡される。
書いてあるのは、藤田医師が作成した手術の説明動画をYouTubeに限定公開しており、そのQRコード。

藤田先生の解説があり、この方法だと筋肉を傷めないので術後の痛みも少なく、歩行能力の回復が早く出血も少ない……ここで止めておけばよかったのに、他の動画を観るとかなり刺激的。足の上部で道路工事が行われているよう。筋肉をヘラでよけて、開いて何やらドリルのようなもので骨を切り、大きなこけしの親玉をガリガリねじり込む。思わず目を覆う。

3月1日、入院。
友達2人と親戚がナースステーションまで見送りに来てくれた。
ここからは、病院のコロナ対策により、面会謝絶。心細さに「ねえねえ、手術かわってよ」と、だだをこねてみる。

全員に拒否され、大きなスーツケースをズリズリ引きずっていると、看護師さんがサッと持ってくれる。
手術前日はすることもなし。

まず、藤田先生が病室にみえ、「不安なことありませんか?」。女性の先生も「一緒に頑張りましょうね」と言ってくださる。
また別の男性医師が現れ、私の足に黒々とマジックでRとLを書いていく。ライトとレフトか。私の胴体には右足、左足、ちゃんとくっついているのに、それもわからないの?大丈夫?
看護師さんが血圧、熱を測り、薬を持ってくるたび、毎回毎回フルネームで本人確認される。
規則とは知っているが、そんなに確認をしなければ間違える可能性があるのかしら?手術を待ち、心細い患者は段々不安が募る。

3月2日、朝9時の手術。
自分の足でスタスタ病室に入り、わかっているのは手術台に寝たところまで。
次に目を覚ますと、自分のベッドの中。
管やら点滴の袋など、いっぱいぶらさがっていた。

手術は済んだのだ。

私の足首は両足とも動かせる。
大丈夫、足はついている。

その日だったか翌日か、記憶は確かではないが、藤田先生から手術は大成功だった、とうかがう。
左足41分、右足42分、計83分で終了。
最速だったとの報告に「早ければいいのか?」という顔を、私がしたのだろう。
早ければ体の負担も少なく、菌にも触れにくく、回復が早い、と説明してくださる。
最初は4時間と聞いていたのに、約1時間半。やはり神の手だ。

手術の翌日、理学療法士が病室に来て、立つ練習をする。
聞いてはいたが、本当だった。
沢山の管をつけたままだったが、全体重を体に載せしっかりと立ち上がり、2~3歩だったけど、歩けた。
あれだけの大手術だったろうに、すごい!

2日目には、車椅子でリハビリテ―ションルームへ。
バーに掴まって、カニ歩きや歩行の練習。

3日目、パジャマを脱ぎ捨て、入院のために新しく買ったトレーナーの上下は計3組。
それを着てちょっぴり薄化粧。
歩行器を押して「おはようございます」。

昨日は緊張して見えなかったけど、恐ろしい光景を目の当たりにした。
おむつ丸出し、浴衣のようなものを引っ掛けた人々がいる。海岸に打ち上げられたコンブのように、デロデロのヘロヘロ。雌雄が定かではない。
永六輔さんが言ったっけ。

「トモ子、年を取ると、おじいさんかおばあさんか、わからなくなるんだよ」

あーこれか。
何せコンブは全くやる気がない。

「○○さん、歩かないとお家に帰れませんよ。一人暮らしできませんよ」

と、叫んでいる介護士もいるが、無反応。

気合はどうした!
私を見よ!
歩行器から杖、杖から自分の足、と着々と進歩している。
トレーナーも毎日着替え、できるものならピカピカ光り物を付けたいくらい。

「おはようございます!おはようございます!」
 
アッチコッチ声をかけているうち、小さく手を振る人もいる。
なんだ、生きているじゃん。

10日目、私は階段の昇降もできるようになり、駐車場まで歩いた。
久しぶりの娑婆の空気、なんと美味しいこと。
私だって、退院したからといって待っていてくれる人は誰もいないが、入院の費用だって大変だ。
2~3ヶ月、1年以上いる人もあるそうだ。

病院の御飯の美味しくないこと。
これは想像以上だった。三食ある。

三食とも山盛りの白い御飯、一回180g。
器も美しくお品書きも添えてある。
野菜、魚、豚、鶏の煮物……なんでこんなに不味く作れるのかなー。

私は本来二食、炭水化物はあまり摂らない。
看護師さんが食器をさげてくれるが、サッと片づけてくれる人は有難い。蓋を開けて点検する人もいる。

「食べてないじゃないですか」

「すみません。運動してないので、食欲が……」

それが度重なると、

「食べないと治りませんよ」

「あのー、不味い……」と、私。

「病院は美味しいものを食べるところではありません。病気を治すところです」と、叱られた。ごもっとも。

3週間の時間を取っていたが、2週間足らずで退院した。
直前に、藤田先生から私の股関節の画像を見せていただいた。
大きなコケシのようなものがガッチリはめこまれている。
ふーむ、新しい足とのご対面。

「これは何でできているのですか?」

「チタンです」

母を火葬場で焼いてもらった時の、美しい骨を思い出す。
真っ白でサラサラだった。

「焼いた時、これは残りますか?」

「ハァ?」

「私が死んで火葬場で焼かれたら、これはゴロンと出ますか」

先生はしばし絶句の後、

「出ます」

ゴロンか……骨まで美しくと願った思いはついえた。

第二番目の先生が

「あなたの股関節の変形は、5~6年のものじゃないですよ。先天性ではないけど、赤ん坊の時、劣悪な環境で育ってないですか?」

私は旧満州の奉天で生まれ、旧ソ連が日ソ中立条約を破り侵攻してきた時、生まれて10ヶ月全く陽の光を浴びることのできない避難生活を強いられた。
その後の栄養失調状態で引き揚げ。

「お母さんの抱き方も問題ありかな」と、先生。

そういえば、小さい時の私は右足が曲がっていた。
私の戦争の歴史は今頃になって体に出た。

母が認知症になり、幻視を見ておびえたのは、ドロドロ音をたて、攻め込んできたソ連軍の戦車だった。
むごい戦争は二度と繰り返してはいけない。
ウクライナの赤ちゃんを見ると、そのまま私の生い立ちと重なり、涙で見えない。

さて、これからどう生きよう。
永さんがご自分の病名を洒落にして、"パーキンソンのキーパーソン"と名乗っていたっけ。
私も"サイボーグ・トモ子"はいかがでしょう。

薔薇色の人生は無理だけど、チタン色の光り輝く人生は、間違いなく始まるのである。