私が10歳の頃、母が京都で買ってくれた。
映画撮影が長すぎ、私がさみしがっている、と思ったのかもしれない。
市松人形の専門店に行き、一番大きなものを選んでくれた。
「こんな素晴らしいものを、いいの?」
心がふるえた。
何故か当時の市松人形は、白い襦袢姿で着物は着ていない。
知り合いの小母さま方がこぞって着物を縫ってくださったが、布地はとても質素だった。まだ物の少ない時代だったのだろう。
写真の着物は、プロの手によるものだ。
私は中国東北部瀋陽(しんよう)に生まれた。
日本は戦争に敗れ、避難生活を強いられた。
日本の女性達はせまい場所に押し込められ、ソ連兵に襲われないよう、窓ガラスには黒い紙を貼って生活をしていた。
私は生まれて10ヶ月、全く陽の光に当たることの出来ない赤ん坊だった。
ウクライナの光景をテレビで観ると、母と私を重ね合わせる。
あの状況で、よく私を日本へ連れて帰ってくれた、と感謝の涙で画面が見えなくなってしまう。
おもちゃ等というものは全くなく、おヤカンの蓋をもらい、なめたり振り回したりしていたらしい。それを不憫に思っていた日本人男性が、ある日、街角で大きなキューピーを抱いた中国人に出逢った。
「あっ!トモ子ちゃんに!」
日本人男性は私の喜ぶ顔を思い浮かべ、一生懸命交渉してくれたらしい。
中国人もやっと手に入れたものだったのでしょう。でも、最後には根負けして、キューピーの片手を譲ってくれた。それが最大の譲歩だったのでしょう。
片手を貰った私は大喜び!それが私の、初めてのお人形だった。キューピーの片手からどうやって全体像を想像できたのでしょう。
あの中国人は、待ちわびていたであろう子ども達に何と説明したのかな?
母は命がけで私を日本に連れ帰り、幸い焼け残っていた母の実家に身を寄せる。
4歳の頃、私が映画デビューしたことは、書籍『母と娘の旅路』(文藝春秋)に詳しく書いてあるので、ご興味のある方は、ぜひどうぞ。
話しは一足飛びに飛ぶが、母が95歳の時、レビー小体型認知症になる。
レディで憧れだった母が凶暴になり、罵詈雑言を吐き、暴れまわるようになる。
目の前で壊れてゆく母を見ていることが出来ず、私の方が先に倒れてしまった。
施設か、自宅介護か迷いに迷う私に、母は施設を断固拒否する。私と一瞬でも離れていたくないのだ。
施設の話が出ると、物を投げ、家を飛び出し、手が付けられなくなる。
深夜、母の部屋へ行くと、ベッドの片隅にスーツケースがひっそりと置いてあった。
その上には、市松人形が乗っていた。
スーツケースの中には、お気に入りのスーツ、パジャマ、身の回りの品がきっちり入っていた。
母は時々正気に返ることがあったようで、
(自分がここにいたら、トモ子に迷惑がかかる。哀しくてもトモ子と別れなければ。どんなに嫌でも施設に入ろう……)
という想いを巡らせていたようだった。
母にこんな思いをさせて。
なんて親不孝なんだろう。
命がけで私を守り、日本に連れて帰り、二人三脚で芸能界を歩き続け、私のためだけに生きてくれた母。
施設に入れて、自分だけ楽をしようなんて……
この市松人形は、昔母も子どもの頃持っていたそうで、自分のものだと間違えたのでしょう。
これを持ってゆけば、さみしくない……
「母を自宅介護しよう」
この市松人形とスーツケースを見た時、私は腹をくくりました。