「嵐寛寿郎さんが亡くなられたのをご存知ですか」

訃報は新聞社の記者から入った。1980年10月21日夜のことだった。

あまりにもあっさりと、この世から消えてしまったアラカンさん。
その人への思いが深く、心の整理もつかないままに、お葬式の前日、私はアラカンさんの京都の家を訪ねた。

ひとりで行くことにした。
阪急電車を大宮から桂で乗り換え、嵐山で降りた。

紅葉が澄んだ空に映え、観光客の往来も多かった。
タクシーを拾って、番地を頼りに家を探したが見つからない。嵐山駅に戻り、近所のお菓子屋さんのお年寄りが「分かりにくいさかい」と、助手席に乗って案内してくださった。

車が入らない路地を歩いて辿り着いた家は、ここが本当に?と疑うほど小さな家だった。鞍馬天狗、むっつり右門(うもん)、明治天皇……を演じた往年の大スターの住居とは思えなかった。

表札には、本名の高橋照市と大きな字で書かれていた。
お顔も話し方もそっくりな従兄弟の小林勝さんと妹の繁子さんが出迎えてくださった。

賞状もトロフィーもない、さっぱりとした小さな部屋。
暑い夏でも汗をかきながら、アラカンさんがもぐり込んでいたという炬燵(こたつ)の脇のテレビは、その頃でも珍しい白黒だった。
そのテレビでアラカンさんが観るのは、ごひいきの巨人の野球と競馬の中継だけ。馬券は36通り(枠番)を全部買いたいところを、お金が足りないからと20通りで辛抱なさっていたのだそうだ。

そんなアラカンさんらしい話しを色々うかがった。

ご遺言は?と尋ねると、妹の繁子さんが

「なにもあらしません。週刊誌には最後に“小太刀をとれ!”言うたと書いてありましたけど、そんなこと言わしません」

「じゃ、なんて?」

「ほんとはね、大きな声では言えしまへん」

と、繁子さんは私を手招きして、耳元でささやくように教えてくださった。

「お便所に行きまひょか、って私が聞いたら、“ふん” これが最後の言葉だす。ほんまに剣豪スターがこれじゃ、締まりまへんなー」

最後の言葉が“ふん”か。これもまた、いかにもアラカンさんらしい話だった。

何か形見になるものを、と探してくださったが、押入れの中はほとんど空っぽ。スチール写真一枚残っていなかった。
たった一枚、黒い頭巾がひっそりと置いてあった。

繁子さんにお断りして、そっと手に取ってみる。
その頭巾はちょん髷を押し潰さないように、外に髷が出るようになったアラカンさん考案のオリジナル頭巾だった。
これを付けて、もう一度……と願っていたアラカンさんの心をみるようで、涙がにじむ。
もう絶対に叶わない。

けれど、77歳で生涯を閉じた鞍馬天狗のおじさんの顔は、何か夢見るように優しく美しかったという。

遺産も借金も子どももなく、愛した女性とも別れ、ひとり人生にさよならしたアラカンさん。
飄々として彼らしい、とその頃は思ったが、今は違う。

女性を好きになれば豪邸を与え、その家族全部の面倒をみ、次が出来れば女性に何もかも渡して新しい女性へ。豪邸を何軒建てたやら……
後に料亭になったもの、京都で2番目に美しい建物に選ばれたもの、終戦後アメリカに接収されたガラス張りの見事な家など、アラカンさんは何の財産も持たず、いつも身ひとつで出てきてしまう。
それを繰り返せば貧乏にもなるわね。

「このカカアで打ち止めだす」と言った最愛の奥さんも、亡くなる1ヶ月前に離婚してしまう。

当時、彼女は30代前半。
アラカンさんは遺産もなく、その時できる唯一の愛情表現は、籍を抜いて自由にしてあげること。

ヨッ!アラカン、カッコイイ!


鞍馬天狗にふさわしい最後だったと言えるかも知れない。