晩年のアラカンさんは、スターでなくなったことを、逆に楽しんでいるように見えた。

テレビ番組撮影の待ち時間の時などは、私の控室に来て、昔自分がどんなにモテたか、その自慢話を披露してくれた。

「トモちゃん、悪いおなごと遊んだらあきまへん、ワテ、タマ抜きになりました」

「?」

「へェ、金の玉だす」

アラカンさんは左の耳が聞こえないから、とても大声だ。その上、女性の私に聞かせる話ではない。テレビ局の若手どもは、この方がどんな偉い方だか知ろうともしないから、貴重な(?)話しの観客は私ひとりだ。

大変に困り気味の私には一向にお構いなく、背筋をピンと張って涼しい目元で、なぜ大切な金の玉をなくしたか……それ以来、子種が尽きてしまった顛末を、アラカンさんは淡々と話して聞かせてくれるのである。

「最初は、あんなええことでけんようになったら、どないしょうと、真剣に悩みました。けど、トモちゃん、大丈夫だったでぇ。いくらでも出来ました」

そんな話しを、膝を崩さず、ハキハキとした口調で真面目に大声で語るアラカンさんに、これが昔むっつりと気取っていた人と同じ人間なのかと、大きくなった“杉作”は当惑するばかりだった。

「おなごは、“しゃー”のつかないのはあきまへん」

これがアラカンさんがお母様にいただいた遺言だったとか。
“しゃー”とは、芸者さん、役者さんのことである。

「だから、素人のおなごはん、ワテ知りまへん」

アラカンさんは、4回も結婚・離婚を繰り返し、そのたびにいつも財産は一切合切、相手の女性に渡して自分は身ひとつ家を出る。
これが、名高いアラカン式離別法……おかげで、ご当人は概ね貧乏な日々を送ってきた、とおっしゃる。

「おなごは弱くてかわいそう。泣かしたらあかん」

これが、アラカンさんの人生=女性哲学だった。

5度目の最後の奥さんだった久子さんも"しゃー"つきの人だった。
もっとも、京都先斗町の芸者さんだったとは思えないほど地味で控えめな人柄だった。40歳以上も年上のアラカンさんを、まるでお母さんのようにお世話しておられた。

一方、アラカンさんは孫のような久子さんを"バァさん"と呼んでいた。
久子さんはアラカンさんの大ファンで、出演した映画には精通し、題名から台詞まで何でも知っている、そんな女性だった。アラカンさんにとっては、自分の生き字引ともいえる存在で、なくてはならない人だった。

「このカカアで打ち止めだす。頭あがりまへん」

アラカンさんはそう言っていたが、なぜか亡くなる1ヶ月前に久子さんを離縁した。
不思議な女性観の持ち主だった。