芳村真理さんと、本当に久しぶりにランチをしました。
私のお気に入りの素敵な所。
真理さんは相変わらず美しいお声でポンポン弾むような楽しいおしゃべり。

年配の方はみなさんご存知でしょうが、若い方のためにちょっとばかり解説を。

『僕と私のファッション』『夜のヒットスタジオ』『ラブラブショー』『料理天国』など、初期のテレビ界を牽引してきた、モデル・女優。
彼女の顔のマネキン人形が店頭に溢れたことでも人気ぶりがわかろうというもの。
女性司会者の草分け的存在であった。

『夜のヒットスタジオ』では、毎回彼女のドレスが話題の的。
まだ私達は、ブランドなどというものの存在すら知らず、聞いたこともない。
ジバンシー、サンローラン、シャネルなどをまとう真理さんにうっとり。アクセサリーもブランドでコーディネートされていた。もちろん靴も。
そんな人はまだひとりも日本にいなかったのではないかしら。
スタイリスト、ヘアメイクアップアーティストをスタジオに5~6人同行するようになったのは、彼女が初めて。いつも真理さんのまわりには沢山の人が取り巻いていて、実に華やか。
それまではテレビ局の衣裳部さん、あるいは自前で間に合わせていたと思う。

ある意味、日本のテレビ界のファッションを変えた人でもあった。
芸能界での活躍ももちろん素晴らしく、また社交界でも、ご主人は日本ポラロイド。カルティエ・ジャパンなど外資系企業の社長を歴任した方で、お二人の華やかな姿は、ファッション雑誌の1ページから抜け出てきたようだった。
私はお仕事でもパーティでも、よくご一緒した。

順風満帆の真理さんが、ある日突然テレビの前から姿を消してしまった。

噂によると、最愛のご主人の具合が悪いらしい。心配だけはしていたのだが、時々電話がかかってくるようになった。

「トモ子ちゃん、ちょっといい?」

長い電話だった。
今なら私も母の介護の経験があり、少しは相談相手になれたのに、その時の母は元気いっぱい。ただただ彼女の苦しみを聞くだけだった。
あんなにダンディで素敵なご主人が壊れていくのをみるのは、どんなに辛かったろう。
後年の母と一緒で、ご主人も他の人の世話は絶対受け付けない。
真理、真理と呼び続けで、彼女は一瞬も目を離すことができない。それが10年余りも続いたそうだ。
どんなに苦しかったろう。
私は5年5ヶ月だったけど、体重は40kgから7kg減り、いつでも重度のストレスの塊を抱えていた。彼女もそんな日々から逃げ出したい時もあったろう。他の方々の活躍も、嫌でも目に入る。

話が前後するが、こんなことがあった。

私が映画の子役の時、大ヒットした「鞍馬天狗」シリーズで、『御用盗異変』『疾風!鞍馬天狗』(1956年公開)にも出演することになった。
これがアラカンさん(※嵐寛寿郎さん)の最後の鞍馬天狗であり、私が36代目、最後の杉作役ということになった。

以来、アラカンさんとのご縁はぷっつりと切れたままになっていた。
再会は、それから数十年後のこと。
フジテレビの『夜のヒットスタジオ』に、私が歌手として出演した時のことだ。

司会の芳村真理さんの「ゴタイメーン!」という声に呼ばれて飄々と登場した坊主頭の男性を、私は一瞬誰かわからなかった。

「どや、トモちゃん、分かりまへんか?」

アラカンさんは大きな声で、私の前に顔をヌーッと突き出した。

「アッ、天狗のおじちゃん!」

クリクリ坊主は当時、映画「網走番外地」シリーズの出演中で、ロケ先から扮装そのままに駆けつけていただいたためだった。
鞍馬天狗の覆面も、カツラも化粧もない素顔のアラカンさんを見るのは、私にとっては初めてのことだった。一瞬誰かわからなかったのも当然のことだった。
かつての雲の上の大スターはすっかり鎧を脱いで、人懐こい好々爺に変わっていた。

もうひとりの司会者、この方も売れっ子だった前田武彦さんが

「アラカンさん、お元気ですねー。もう、おいくつになられましたか?」

「ハイ、80だす」

「それはお若い。とても80には見えませんねー。いやー、ほんとにお若い」

見えないわけである。
当時、アラカンさんは64歳だったのだから……

「マエタケを担いでやったで!」

後で、アラカンさんは大喜びであった。

芳村さんと私は、あの話、この話、昔話でアッという間に時間が経ってしまった。
でもメインはなんといっても、介護の話。

「10年間精一杯やってきたから、私はもう思い残すことないわ。これからは、私の人生楽しく生きるわよ」

私も一生懸命母のことはやってきたけど、まだ多くのことを引きずっている。

「トモ子ちゃん、元気出すのよ。お互いに頑張りましょうね」

またの再会を約束して、グータッチでお別れした。
今度は、鉄板焼きをリクエストされた。

お若い!